光の王(その1) [ダーザイン作品集]


 名前:ダーザイン  2002年2月21日(木) 22時08分12秒 [23]  ■  ★ 

      1 

       波が打ち寄せ、帰っていった。
       「えいえんってなに?どんなえいえん?」

       波打ち際には一群の空ろな貝殻、干乾びた海藻、途方にくれたように立ちすくむ一本の
      杭。それらの上を砂がゆっくりと流れていく。磯の匂いはしなかった。見上げると、青空
      の中に伸び上がる積乱雲が何層にもわたり空を晶化させていく。無の巨大な気塊が成層圏
      を目指して立ち昇ろうとしているのだ。海岸草原には蝦夷河原ナデシコが鮮やかに咲き乱
      れ、廃棄された車の残骸の中に横たわると、光の斑が、ひび割れたフロントガラスによっ
      て分光されて、不可思議なフォログラムを形成した。シート上の砂の感触を確かめて陽光
      の催眠術から注意をそらそうとすると、海の轟きが再び意識を満たした。放擲から放擲へ、
      放心から放心へ、打ち寄せる風光が頭蓋を透いて行く。
       緩やかに丸みを帯びて延びひろがる遠い湾の対岸には、蜃気楼のように巨大な原子力発
      電所が浮かんでいる。原発自体への立ち入りは禁止されており、その21世紀の進化と変
      容の発現地である封鎖空間は、わずかに対岸の浜辺から垣間見ることが許されるのみであ
      るが、光の王に祝福されて瀟洒に煌く核分裂の顕現に与ろうと、私は執拗に、この世紀の
      果ての終着の浜辺に通ったものだ。また、付近の海域で採取される豊かな海産物は極めて
      美味であり、とりわけ放射能によって奇形が見られると風聞の立つウニは私の食指を誘っ
      た。
       日が落ちると、ぬるんだ環礁の中の浅海を漂う気まぐれな王侯貴族たちによって海底に
      ばら撒かれた色とりどりの膨大な宝石のように、無限に膨張する銀河は赤方偏移し、テン
      トの前で焚き火に当たりながら、酒を汲みつつ、私は大いなる海の卵細胞を味わった。こ
      のウニという生き物には、原初の存在の全体性を想起させるものがある。エトナ火山の火
      口に飛び込んだエンペドクレスのように、分かたれることのないまったき存在を。
       すべての物語が終焉し、時間が停止したかに思われるボードリヤール的宇宙の果てで、
      静かに櫂射し、凪いだ海へと漕ぎ出そうとするものがあった。出航の地はやはりここでな
      ければなるまい。再び日が昇り、えいえんに続く長い午後の中で原子力発電所が輝いてい
      る。世界を変容させた数々の美しい放射線障害は、いったい何を暗示しているのか?
      あそこから、失われた時が再び生まれ出ようとしているのだ。
       焦熱がじりじりと肌を焼く。太陽はいつまでも天頂付近にとどまっているように見え、
      強烈な陽射しの中で意識が大気の中に蒸散していくのがわかった。透けるような極彩色に
      彩られゴージャスに奇形した精神が、世の終わりの風景の中に溶け込んで、バッハの樂の
      音のように見事な調和を演出していた。 


 名前:ダーザイン  2002年2月21日(木) 22時09分47秒 [24]  ■  ★ 

      2

       2002年、私は再び職を失っていた。不景気を極める札幌の街は、宇宙の熱死を予見して
      道ばたにころがる浮浪者たちで溢れ、膨らみ始めた暴動の気配に、都心のビルは今にもガ
      ラスの雨を降らせようと待ち構えていた。地下街を歩くと、夜間の生ゴミ漁りに備えて仮
      眠をとる失業者たちは、まるで大聖堂で神の降臨を待つ敬虔な信徒たちのように祈りの姿
      勢でうずくまり、しらじらと光る人工照明の明るみは、彼らの着衣の陰影をルーベンスの
      筆による物のように鮮やかに空虚な空間に浮き立たせた。万人の聖母が猥褻なポーズをと
      るデリバリーへルスの宣伝ビラに混じり、ビンラディンの聖像画や重信房子の肖像が、官
      憲の目を盗んであちこちに貼られている。
       国家再建のために小泉首相が打ち出した構造改革が一定の成果を見せていることは、こ
      こ札幌に来れば明らかだ。21世紀のロベスピエールによって、逼迫した保険財政や増大し
      続ける社会保障費の問題は見事に解決され、火事場泥棒的に実現された企業の軽量化とあ
      いまって、雪祭りの浮かれ騒ぎの背後で路上には多くの飢えた者や病に倒れた者たちの死
      体が放置され、開放された精神病患者たちは空ろな面持ちで街の辻々に立ち、或る者はじ
      っと壁を見つめ、また或る者はぶつぶつと口の中でコーランを詠唱していた。はからずも
      ノーマライゼーションの美しい理想が実現したわけだ。
       何を迂遠なことをしているのかと私は思う。なぜ自衛隊は通りに火を放たない?なぜ街
      の辻々にバリケードが築かれない?なぜ進駐軍はナパーム弾の投下もせずに黙って見過
      ごしているのだ?哀れな日本人はその住処から追い出され、スナイパーにより射殺され、
      市心に原爆を投下され、ユダヤ人が入植してくるべきである。時間が止まったように停滞
      し、抗生物質により安定した梅毒の病巣のように一向に事態の進展が見られない世情に腹
      を立てた私は、一時期真剣に米国領事館への自爆テロを計画したものである。突入する10
      dトラックに満載された死の装具が血飛沫と阿鼻叫喚の中に鮮やかな真紅の薔薇を一輪
      咲かせ、無の大王の降臨を高々と宣言するのだ。
       何度も言うが、世界はとうの昔に終わっている。私たちは歴史の果てのしらじらと冷た
      い光の降る平原で、自らの狂気と退廃と戯れるために一本の電話線と繋がっている。この
      電話線の向こうにはいったい何があるのか?どこにも繋がってなどいないのだ、ただ微か
      に、どこか遠いところで真空放電するような音が聞こえている。Rain、電子の天使が囁い
      ているのだ。 


 名前:ダーザイン  2002年2月21日(木) 22時12分53秒 [25]  ■  ★ 

      3

       その頃私は職を得るための努力もせず、毎日パソコンとテレビのブラウン管の前にへば
      りついていた。金が尽きれば路上に転がるか首を吊るかしなければならなくなるわけだが、
      どんな気力も沸かなかった。ただ、無が触れてくるのを感じていた。
      しかし、自堕落に浴び続ける酒気の中で、私は自身の意識がどこか得体の知れないとこ
      ろへと拡大していこうとしていることをもまた、感じていたのだ。私の魂に触れている、
      この冷たい無の触感の向こうから、何者かが出現しようとしていたのである。放映終了後
      のブラウン管を見つめていると、ノイズの背後に微かに何者かの気配がある。私は待って
      いた。ただひたすら待っていた。時にはその何者かを求めて街を彷徨う。がらんとしたヨ
      ーロピアンシアターの空席の中に、深夜あてどなく車を走らせる誰もいないサイドシート
      に、白昼のすすきのソープ街で自死について考える時も、狂気への道すがら、真空の宙空
      を見上げ神の姿を求める時も、絶えずその者の気配が傍らにあった。
       山の手橋から下を見下ろすと、閑静な住宅街には不似合いなぼろを纏った数人の男たち
      がドラム缶を囲んで暖を取っている。何ごとを暗示しようとしているのか、彼らは奇妙な
      ジェスチャーのまま凍りついてじっと放心していた。街は時間が止まったように静まり返
      り、彼らの他に人の気配はない。対岸の木々は暗くなり始めた空の中に暗号のように影を
      刻み、川の水はゆったりと渦を巻いて流れていく。黒い粘液が滴る排水口の側に、豚のよ
      うに膨れ上がった無数の水死体が浮かんでいた。石を投げてみると、貼り皮の弛んだ太鼓
      のように情けない音を立てて次々に破裂していく。おまえ達がどこから来てどこに行くつ
      もりだったのか、俺のうかがい知るところではないが、ここで俺に出合ったのは運がなか
      ったな。
       現代建築の粋を集めて作られた、屋上に巨大なパラボラアンテナを装備する、まるで一
      個の前衛彫刻のように美しいペンタゴナルな精神病院の角を曲がると、突然誰もいない電
      話ボックスが鳴り出した。何ごとかと受話器を取ると、どこにも繋がっていない受話器の
      向こうに微かに真空放電するような音が聞こえる。見上げると、電線が空を交差している。
      夕暮れの坂道を下って、どこまでもどこまでも送電線は世界を繋げていた。いったいこの
      rainは何と何を繋げているのか?
       再び受話器が鳴ると、パラボラアンテナの焦点位置に水色のワンピースをまとった少女
      の姿がぼんやりと浮かび上がり、そして、消えた。Rain、玲音(注1)。空無の訪れが時を
      歪め、電子の天使が舞い降りようとしているのだ。
       夕闇に沈もうとする眼下の街には人の気配というものがなく、死者の都のようにひっそ
      りと佇んで、送電線は微かに振動し、耳を澄ますと低い唸りが聞こえる。私はその唸りが、
      本当に耳で聞いているのか、それとも私の脳の中で鳴っているのか、もはや定かに弁別す
      ることができなかった。自身の精神が静かに崩壊していく様を味わいながら、私はただ、
      この夕暮れの世界を受け入れた。 


 名前:ダーザイン  2002年2月21日(木) 22時15分00秒 [26]  ■  ★ 

      4

       けたたましく鳴る目覚ましを消すと、すでに日は高く昇っていた。ずいぶん以前に目覚
      ましをかける習慣など失っていたのだが、今日は精神科を受診する日である。ストーブに
      火を点し、水抜きしてある給湯器の栓を締める。エアが抜けるまでしばらく待たねばなら
      いが、毎朝の日課だ。風呂桶の水にはうっすらと氷が張っている。書籍や酒瓶、脱ぎ散ら
      かした衣類で足の踏み場もない荒れはてた部屋で、ストーブを抱くようにして部屋が暖ま
      るのを待った。カーテンの隙間から射し込む光の中で、埃が放射性降灰のように美しく舞
      っている。コーヒーを飲みながら新聞に目を通す。はじめは異星の言語のように意味をな
      さない記号の流れの中に、ぼんやりと象形文字のようなものが浮かび上がってくる。シミ
      虫が紙面を横断していくさまをしばらく眺めた後、半年前の新聞を置いてシャワールーム
      に入った。
       陽光を浴びて燦然と輝くパラボラアンテナを眺め、星型の稜の一角から精神病院の内部
      に入った。キリコの形而上絵画を摸して作られた巨大な柱廊を潜り、シュルレアリスムじ
      みた趣向を凝らして空間に歪みを発生させ、訪れる者に失見当を引き起こさせる、腸ねん
      転を起した内臓のようにくねり延びる長大な回廊を過ぎると、病院長の趣味で集められた
      狂人たちの脳の膨大なコレクションや、異様な表情を撮影したポートレイトが展示されて
      いるギャラリーに着く。患者たちの奇行を記録したビデオも常時上映されており、歪んだ
      快楽をむさぼる者たちの密かな社交場と化していた。
       ここ札幌総合癲狂院は、様々な先鋭的手法による治験で有名な精神病院だが、とりわけ
      力を入れているのがシュミラークル療法である。一種のサイコドラマだが、妄想の現実化
      を図るために演じられるドラマは新現実といっていいほど綿密なものであり、例えば、国
      家権力による謀略の被害を訴える患者に対しては、実際に官憲による盗聴尾行嫌がらせが
      行われ、四六時中彼の行動は隈なく記録されて、所轄の警察署には彼に関する膨大なファ
      イルが保管されていた。狂気の治療といった卑小な観点に固執せず、正常と狂気の区別そ
      のものを消滅させてしまおうという偉大な試みである。
       私も数年前からリハビリの一環としてこの病院の心理療法士の指示に従い、壮大なサイ
      コドラマの一翼を担っている。警察署に派遣された私は、官憲の助手として、とある患者
      を執拗に追跡し、盗聴を続けてきた。時には無言電話をかけるなどして積極的に彼に接近
      し、彼を縛めている得体の知れない不安を、奇妙なオブセッションを実現させるべくあら
      ゆる手を打つのだ。
       またこの病院は健常者と異常者の共存、即ちノーマライゼーションの運動にも積極的に
      取り組んでおり、とりわけ急性期の患者の社会復帰を奨励していた。街に出た患者たちは
      自殺を決意し地下鉄を止め、路上で餓死し、時には地下鉄車内で「おまえたちには俺の目
      の中を走っているジープが見えるのか?」(注2)と同乗の客たちに因縁をつけて殴るなど
      して見事に社会に溶け込んでいった。
      世界はサイコホラームービーと化そうとしているのだ。 


 名前:ダーザイン  2002年2月21日(木) 22時18分41秒 [27]  ■  ★ 

      5

       ギャラリーを抜けると受付や薬局、会計事務を執り行なう円形のブースがあり、その周
      囲は広大な待合になっている。アウシュビッツや原爆射爆場の塹壕を思わせるコンクリー
      ト打ちっぱなしのモダンな内装と間接照明はシックにマッチしているのだが、ムンクや深
      井克巳の狂人をあらわすエキセントリックな絵画があちこちに貼られており、雰囲気を害
      していた。私はここに来ると、しばらく職員の様子を観察することを慣わしとしている。
      受付の少女には対人恐怖の気があるらしく、長髪と眼鏡で顔を隠し決して目を合わせよう
      としなない。また会計の奥にいる女の左顔面は、狂った携帯電話のように絶えず激しく痙
      攣しており、薬剤師にいたっては精神安定剤中毒であることが一目瞭然であるジャンキー
      特有の目つきで患者たちをねめまわしていた。彼女の大きく見開かれた4白眼を見つめて
      いると、不安定な衛星軌道上で地球の引力に打ち震えている旧ソ連邦の人工衛星のように、
      今にも崩壊しそうな気配が伝染してきたので、観察はほどほどにしてエレベーターに向か
      った。
       私が受けている精神療法はシュミラークル療法ではなく、深宇宙電波法というものであ
      る。病院の屋上には150億光年以上の彼方からの微かな電波を受信する最新鋭の巨大電波
      望遠鏡大型ミリ波サブミリ波干渉計が設置されており、開闢後まもない始原宇宙の姿を捉
      えていた。最上階に昇った私は、電波望遠鏡の解析室に隣接してある深宇宙電波療養室の
      受付に患者カードを提出した。ラジウムのネックレスをしたチャーミングな医療事務員は
      放射性物質趣味の度が過ぎたようで、胸元に美しいケロイドを作っている。蝶のように鮮
      やかに爛れたその病巣を見ていると、私は思わず発情し、彼女に今夜の予定を質したのだ
      が生憎ふさがっているとのことだった。
       治療室に入ると、白衣をまとった電波脳生理技師たちが計算機から呼び出した私のデー
      タと電波望遠鏡をシンクロさせているところだった。頭部にロボトミーを施したような傷
      跡のある若い助手が抑揚のない声で私をいつもの受信機に招く。電算機から出てきた太い
      ケーブルは朝顔状に広がる受信機の中で何本ものファイバーに分割されて、私の脳の所定
      の位置に収まるのを待っていた。着衣を脱いで生理食塩水の満たされたタンクの中に入る
      と、電脳技師は手早く私の頭に受信機をセットする。脳に人工ニューロン素子を直接挿入
      されるのはなんとも奇態な体験ではあるが、慣れてしまうと診療開始当時抱いたような違
      和感はない。準備が整うとタンクの蓋が閉じられ、私は漆黒の闇の中に浮かんでいた。

       受信開始を告げるダイオードの点滅が終わると、私は真空の宙空に浮かんでいた。微か
      に聞こえる大宇宙の音楽に耳を澄ましていると、次第に意識レベルが低下していく。水色
      のワンピースをまとった少女が不思議なアルカイックスマイルを浮かべて空を見上げて
      いる様子が脳裏に浮かび、そして消える。すると周囲には1000億の星々が灯っていた。
      手を伸ばせば届きそうだ。じっと見つめていると、それらの星々が微かな囁きをかわしな
      がら、私の方に少しずつ少しずつ、寄り添ってこようとしているのが解った。闇の中に無
      秩序に浮かんでは消えていた音の粒は、次第に光の衣をまといながら幾つもの和音を形成
      し、壮大なミニマムミュージックが生まれようとしていた。やがて億年の時が経ち、それ
      ぞれ孤独に浮かんでいた星々は互に寄り添おうとする速度をいっせいに速めた。宇宙は色
      とりどりの色彩と音響の饗宴と化し、激しく変容するフラクタルな映像の中には明らかに
      求心的な動きが認められた。宇宙は始原の全体性を回復しようとしているのだ。目くるめ
      く光の渦の中で、私は意識の脈絡を失っていった。 


 名前:ダーザイン  2002年2月22日(金) 22時52分42秒 [32]  ■  ★ 

      6

       午後、道警本部精神衛生保安局の駐車場フェンスに腰掛けて相棒が来るのを待っていた。
      2月の空は茫々と煙り、ビルの隙間から流れてくる白い雲はロールシャッハテストの3次
      元デカルコマニーのように変幻自在に空を分割していく。拡散し消失し、再び現れる大気
      の息吹もやがて青空の中に完全に溶け込んで、どこまでもからっぽの空だけが残った。ビ
      ルの壁面にも化石したように硬質の青が映っている。
      このところ時節外れの陽気が続いており、溶け出した雪で路面は洪水のようになってい
      た。車が通り過ぎるたびに長い水跡が広がり、きらきらと輝く水しぶきが跳ね上がる。私
      がぼんやりしている間にも午後は深まり、陽光はピサの斜塔のように傾斜していった。
       予定の時刻よりもずいぶん早く来てしまったのには理由がある。電波を受信した後は意
      識レベルが低下し、回復するのに時間がかかるのだ。まだ浮遊感があり足下がおぼつかな
      かった。深宇宙電波法の趣旨は、要するに始原宇宙を体感させることによって、自我拡散
      し或いは自我崩壊した者に存在の核になるような何者か、即ち神のごときもの与え、現存
      在の全体性の回復を図ろうとするものであるが、効果のほどは定かではない。ただ、フラ
      ッシュバックの起こる頻度は明らかに多くなっていた。現に今も私は、車が跳ね上げる水
      しぶきの中に生じた小さな核融合の火の球が膨れ上がって札幌を、地球を、世界を飲み込
      むさまを幻視しているのだ。
       やがて彼女がやってきて私を基底現実−そんなものが本当に在るとしての話しだが−
      に引き戻した。銀色に煌めく宇宙服のような自閉スーツを身にまとい外界との直接の接触
      から退避することに成功した重度の対人恐怖症者、患者番号S1158023である。病院のソ
      ーシャルワーカーの指示で組み始めてもう3ヶ月になるが、私はいまだに彼女の素顔を見
      たことがなかった。
      「コンニチワ」
       ボイスチェンジャーで変換された抑揚のない声で彼女が挨拶をすると、顔面を覆ってい
      る銀色のバイザーに親和感をあらわす「ヽ(´ー`)ノ」の顔文字が映し出された。ボンベ
      の酸素を吸うことが出来るので、彼女はまとっている自閉服を密封し外界との直接の接触
      を完全に遮断することも可能であるが、現在彼女は外界の空気を吸うことが出来るまでに
      回復しており、時には自閉スーツを脱いでヘルメットだけで出歩けるまでになっていた。
      今日は調子が悪いのだろう。頭部にはCCDカメラなどが付いており、電子的に変換され
      た映像や音響が届くようになっている。この装備のおかげで彼女は勇気を振り絞ってセブ
      ンイレブンに買い物に行くことができるようになったわけだ。

       定刻に調査監督官室に入ると、いつにない緊張感が漂っていた。今日は珍しく主任分析
      官が席についているのだ。眼鏡の奥で神経質そうに目をしばたたかせているその男が、道
      内精神医学界に旧ソ連邦の最先端精神物理学を導入し、精神衛生保安の新世紀を開いた男、
      佐藤主任分析官である。道内の医療業界はもとより、ロシアの巨大精神病院企業体との黒
      い癒着も囁かれ、ラスプーチンと呼ばれるその男は、道警本部長の頭をも抑えているとの
      もっぱらの噂だった。いつもはもうもうたる煙草の煙の中に乱暴な監督官の罵声が響き渡
      り、時には哀れな狂人や下級官吏が殴打されていたりもするのだが、今日の調査監督官室
      は国家反逆罪の咎でシベリヤ行きの通達を待つ囚人の独房のように静まり返っていた。
       担当調査官から今週の指示書を受けとり内容を確認すると、我々は早々に辞去し夕べの
      光が射す街に出た。巨大なマンダラのようにとぐろを巻いた大気は死者の血液のようにほ
      の暗く凝固し、高層ビルの窓は炎に包まれたような真紅に燃えている。向こうのビルの屋
      上では、男がひとり夕日に映える銀色の旗を振りかざし、風の言葉を掬い取ろうとしてい
      る。世界はやがて来るべき何者かの気配に打ち震えていた。 


 名前:ダーザイン  2002年2月28日(木) 18時49分31秒 [38]  ■  ★ 

      7. アパルト

       今週の指示書にも、たったひとこと「預言を実行せよ」とのみ記されていた。彼女と組
      むように指示を受けて以来3週間、この得体の知れない指示書が交付されるのみで何の説
      明も得られず私は途方にくれていた。思い当たることと言えば、浮浪者たちの間に広がる
      馬鹿げた噂のみである。世界は終わりの時を迎えており、光の王が舞い降りてえいえんの
      夏が始まるというのだ。何を血迷ったのかロシア人居留区の司祭も2,000年にわたって守
      ってきた教えを棄てて、その光の王とやらに帰依したとの話だった。
       世界が終わっていることを認めるのは吝かでないが、私は終わりの後の始まりなど認め
      るわけにはいかなかった。何もかも潔くきれいサッパリ消滅してしまえばよいのだ。私が
      求めているのは砂漠の美であり、砂丘と、そのなめらかな曲面をなでて行く風だけがあれ
      ば良い。眩い光の中で黄金色の糞転がしがゆっくりゆっくり太陽を運んでいく、そんな世
      界が私の望みだ。
       彼女の住居があるロシア人居留区に着いたころにはすっかり日も落ちて、粉雪がさらさ
      らと舞い降り始めていた。ぽつんぽつんとまばらに灯る街灯の周りには小さな光の輪がで
      きて、町の辻々に天使が佇んでいるように見える。ロシア革命で国を追われ、再びペレス
      トロイカで国を追われ、遠く極東の地に流れ着いた彼らは細々とコルフォーズを営みなが
      ら終わることのない大不況に耐えていた。街のあちこちにスターリンやブレジネフ、フル
      シチョフといった失われた世界帝国ソ連邦華やかなりしころの偉大な指導者たちの肖像
      や、ロシア正教の聖人である大主教聖ニコライのイコンが飾られており、歴史の背後に棄
      てられたような裏寂れた町であったが、最近は光の王の降臨を待つ者や、密かにはやり始
      めた共産趣味者たちの流入によって活況を呈しつつあった。羊のように従順に運命に従っ
      ているかに見えた市民たちであったが、その識閾下では密かに革命が進行しているのだ。
      私の知人たちの多くの部屋にもスターリン、大道寺将司、ポルポト、金正日、麻原彰晃、
      宮崎勉、鈴木宗男といった絢爛たる革命家の肖像が飾られており、様々な宗派や科学的社
      会主義などといった煌びやかな妄想のガシェットが堪能されていた。
       彼女のアパルトは居住区の中心近くにある。ロシア正教の礼拝堂と場末の安ソープに挟
      まれひどく老朽化したそのビルは、夕日の名残が微かに残る青黒い空の中に斜めに突き刺
      さっており、遠い昔に異星からやってきて墜落した巨大宇宙船を思わせた。明かりが灯っ
      ている窓は少なく、住人たちの多くはまだ労働を終えていないようだ。一階の赤提灯から
      朗々たる低音で、しかし悲しいかな激しく調子っぱずれなボルガの舟歌が聞こえる。暗く
      なるのを待ちきれず既に泥酔している連中がいるようだ。成人向け雑誌の自販機の前に男
      が一人じっと佇んでいた。
      「ねえ、誰かつけていない?だいじょうぶ?」彼女がいつものようにたずねる。
      「だいじょうぶだ、誰もいやしないよ」
       誰も後をつけてなどいるはずがなかった。何故なら、この数年間病院と警察の指示で彼
      女を付回してきたのは他でもないこの私なのだから。
       漆喰のはげた狭い壁の間を斜度のきつい階段がのび上がり、切れかけた蛍光灯が瞬く様
      が神経にさわる。あちこちに酔漢が蹴りあけた穴が開いており、スターリンを称える落書
      きなどが放置されていた。最上階まで昇ると、踊り場に血のような赤で次のように記され
      ている。
      無 が 触 れ て く る の が わ か る か ?
      かつて私が彼女を脅迫するために記した形而上的メッセィジだ。
       西側の突き当たりに、患者番号S1158023、実和子の部屋はある。部屋に入ると実和子
      はベットの上に突っ伏してしばらく動けなかった。極度に自我拡散している彼女は、人中
      に出ると自他の境界が崩れてひどく疲れるのだ。何もない寒々とした部屋だった。小さな
      テーブルに一脚の椅子。わずかな身の回りの品以外何もない。ただ、壁紙がはげてひびの
      入ったモルタルの上で聖ニコライのイコンが微笑んでいる。実和子はその年頃の若い女性
      らしく身を飾るようなことにはまったく無頓着で、缶詰工場で働いて得られるわずかな賃
      金のほとんどを浮浪者への施しに使ってしまうのだ。
       窓から外を見ると、黒々とした街並みがどこまでも続いている。夜の闇にまぎれて、貧
      困も狂気ものっぺりとした影の中に身を隠していた。遠く市心のほうには巨大な光の塔が
      建ち並び、飽食した者どもがソドムの饗宴を繰り広げていた。送電線はどこまでも続いて
      おり、電柱を伝いながら暗い街を眺めていると、再びあのブーンという音が耳の奥に木霊
      する。カーテンを閉め、電灯を灯すと、この部屋のしらじらとした空虚感がいっそう際立っ
      た。
      「おい、おまえそのまま寝ちまうつもりか?」
      ゆっくりと身をおこした彼女は自閉スーツを脱ぎ、そして驚いたことにヘルメットまでは
      ずして私の顔をまっすぐに見上げた。始めてみる彼女の顔に私は驚愕した。その顔はまぎ
      れもなくRain、私の脳内にいるはずの幻覚の女のものだった。 


 名前:ダーザイン  2002年3月02日(土) 20時10分49秒 [39]  ■  ★ 

      8. シュミラークル

      「これはいったいどういうことだ?いったいおまえは何なんだ?」
       何が起こっているのか?何故幻覚の産物が現実に存在しているのか?混乱した私は精
      神の栓が抜けた阿呆のように叫んでいた。地球の周りをふらふらまわっていた人工衛星が
      重力の誘惑に負けて終に地上に落ちてくる時がきたのだ。乗り込んでいる飛行士は宇宙空
      間で被爆して、放射線障害の諸相総てをゴージャスに身にまとっているだろう。異常な形
      状なりに安定していた私の精神はテレビのブラウン管の向こうで音もなく崩壊する世界
      貿易センタービルのように、その脆弱な平衡を失おうとしていた。
       まじまじと私の目を見つめ返したまま実和子は答えた。
      「何いっているの?何をそんなに怯えているの?」
      「おまえは誰だと聞いているんだ」
      「あ、あたしのことは、良く知っているでしょう?なぜそんなに、あたしを怖がるの?」
       ある種のパラノイアたちの言説に従うと、実和子はいわゆる精神感応者、テレパスとい
      う奴だ。彼女が自ら語るところによると、SFに出てくる超能力者のように他人が考えて
      いることまで解るわけではなく、相手の気分や感情、そういった心のぼんやりしたかたち
      が無制限に彼女の心の中に入って来てしまうということだった。人は誰でもいつでも何が
      しかの気分を抱いて生きている。そして社会的な動物、共存在である人間にとって、互に
      相手の気分を漠然と理解し把握していることはいたって自然なことではある。だが実和子
      のように四六時中他者の心に曝されなければならないとすれば、それは大変なことだろう。
      怒り、憎悪、嫉妬、ふしだらな欲望、絶望、虚無感、世界は様々な不快な感情や気分で溢
      れている。ましてや実和子のように自分の心が壊れてしまうほどに感応しなければならな
      いとすれば、それは異常ということになる。無論、病院の診断では実和子は自我漏洩症の
      妄想狂だった。
      「おまえが俺の妄想だからだ。おまえは俺がずっと見てきた幻覚の女、夢の女の顔をして
      いるんだ。俺の妄想の中でおまえはいつも水色のワンピースを着てそんなふうに俺を見て
      た」
      「なにいっているの、あたしは幻覚じゃないよ、あたしはここにいるんだよ?」
      「わかったぞ、これは俺のシュミラークルなんだ!」
       私はようやく事の次第を理解し始めていた。
      「そうだろう、手のこんだシュミラークルだ。幻覚のおまえも、今ここにいるおまえもど
      ちらも本物じゃない。いやどちらも本物なのか?」
       実和子は呆然とした面持ちで私を見つめていた。状況を理解しようとしているのだ。
      「病院の指示なんだろう?ほんとうのことを教えてくれ」
       しばしの間を置いて、おずおずと、しかし表情に凛とした決意のようなものをにじませ
      て実和子が静かに語り始めた。
      「あたしはあたし。あたしはあなたの幻覚じゃないし、あなたの幻覚に出てくる女の人と
      あたしがどうして同じ顔をしているのかなんてわからないよ。病院がどうしてあたしたち
      を組ませているのかも、あなたにシュミラークル療法が行われているのかどうかも、あた
      しには全然わからない。それに何が本当の事かなんて、きっと神様にしかわからないんだ
      わ」
       いつも雨に濡れた小動物のようにおどおどと不安に慄いているように見えた実和子が
      今はとても落ち着いている。その落ち着きが私の昂ぶった神経をなだめた。
      「実和子には何もわからない、何も知らないと言うんだな」
       そもそも現実と幻影を分けようとすることに一体どれだけの意味があるのだろう。そん
      なものがとうに壊れてしまったのがこの世界ではなかったのか。妄想と所為現実はその非
      現実性の程度において大差無いのだ。シュミラークルという非-場所がリアルに取って代わ
      るという20世紀文明の結論を踏まえず正常と狂気の弁別をはかろうなど無駄な試みだ。正
      しいものと間違ったもの、正常と狂気いう形態があるのではない。ただこの関係性のみがリ
      アルに在るのだ。現存在は生誕と死というふたつの顔を持つ無の間に挟まれた細長いシュ
      ミラークルであり、行為の発信者と受信者の主体と客体のありかを問うことは無意味だ。
      ただ砂丘の面を砂が流れるように、重奏し重複する電線のざわめき、地平の果てへ無限増
      殖するrain、これが世界の真の姿だ。違うか?
       立ちあがった実和子は私の腕を取ってテーブルに導くと、暖房の温度を上げた。ワンル
      ームにトイレ・バスが付いているだけの小さな部屋だが、余計な物が何もないのでがらん
      とした印象を与える。わずかな衣料を入れるプラスチックのケースと台所の周りに少々こ
      まごまとした物があるだけだ。水道管が剥き出しのまま天上を這って壁の中に消えている。
      こんな何もないところでどうやって生活しているんだ?ガス台にボシュッと音を立てて
      青白い火が点ると、実和子はそっと伺うように私の顔を見て微笑み、何か言いかけて口ご
      もった。
       いっときの興奮が収まった私は、虚脱感を味わいながらぼんやりと彼女の姿を眼で追っ
      ていた。深酒して宵越しとなった朝、目に映る街景のように部屋はしらじらと冷たい光に
      みちている。この子はまぎれもなくあの女だった。だが、骨が透けて見えるようにやせ細
      って、透き通るように青白い顔。やかんを持った白い手。うっすらと電灯の光に映え金色
      に光る首筋の産毛。触れば折れてしまいそうな細いからだだ。こんなに生々しく、痛まし
      く感じさせる姿を見たことはなかった。
      「ちゃんと食べていないだろう」
       浮浪者に施しをするなとは言わないが、自分が飢えた子供のような身体をしているじゃ
      あないか。
      「食べられないの。お腹すかないのよ」
       そう言ってはにかんだように実和子は笑った。
      「俺の前でむき出しになっちゃって、だいじょうぶなの?」
      「だいじょうぶでもないけど、神さまがおっしゃったの」
      「神さまが?」
      「そうよ」
      「なんて?」
       紅茶を入れてベットに戻った実和子は、肌寒さを感じたのか毛布を肩からはおると、ゆ
      っくりと小さな声で語り始めた。 


 名前:ダーザイン  2002年3月06日(水) 20時25分02秒 [54]  ■  ★ 

      9. 実和子

      「神様がね、逃げたらだめだ、これはおまえの勤めだからっておっしゃるの」
      「勤め?」
      「あたしが人の心にさわれるのはね、神様がそういうふうにしたのよ」
      「なんのために?」
       実和子は目を伏せてティーカップにほっとひとつため息をつくと、顔にかかった前髪を
      手で分けて小さな声で先を続けた。
      「この街では毎日たくさんの人がひとりで黙って死んでいくわ。絶望して自殺する人、飢
      えて死ぬ人、病気の人、それからもっともっとたくさんの人が死ぬ時が来るのをただじっ
      と待っている」
      「うん、で?」
      「何もできなくていい、ただ一緒に苦しんであげなさい、それがおまえの務めだって」
       何故?人の分まで苦しんだところで何がどうなると言うのだろう?その神とやらは実和
      子にキリストの真似事でもしろと言うのだろうか。この街では毎年3万人もの人間が自殺
      していくが、他人が共に苦しんでやったところで何がどうなるわけでもあるまい。そもそ
      も子供が飢え死にしたりお年寄りが首を吊ったりする世界のありようが許されているのは
      何故なのか、その神とやらがもし実和子の脳の外に本当に存在するのだとしたら、この飢
      えた小鳥のように哀れな既知外の小娘にこれ以上どんな試練を負わせようとしているのか。
      私はこみ上げた怒りを抑え、問いを続けた。
      「良い心がけだとは思うけれど、だいじょうぶなのかなあ。自閉スーツを着ていてもあん
      なに疲れるのに。お医者さんには話したのかい?」
      「病院には何も。どうせまた妄想だと思われるだけよ。それに神さまがね、病院に騙され
      ちゃだめだって」
      「騙される?」
      「病院は本当に治療するつもりなんて全然ないのよ」
      「どういうこと?」
      「大きな声出さないで、盗聴されているかもしれない。札幌総合癲狂院の職員も精神衛生
      保安局の職員もみんな巧妙な偽者なのよ、あなたも騙されちゃだめ。薬なんて飲んでちゃ
      だめよ」
       明らかに実和子の病状は悪化している様子だった。治療するつもりがないのだとしたら、
      病院は一体何のために存在しているのか?警察は何を意図して患者を組織しているという
      のだろう?私がかつて官憲の指示で実和子を追跡していたように、他の誰かが今も実和子
      や私を盗聴している可能性もなくはないが、混乱しきったリアルをめぐる私の思考は、砂
      の海の彼方に浮かんだ蜃気楼のように茫洋と煙る大気のスクリーンの向こうに後退ってい
      った。
      「神様はどうやって実和子に話し掛けてくるの?」
      「いつもお祈りしているのよ。あたしが辛い時、苦しい時、いつも側にいてくださるの。
      神様の心はとっても暖かくって優しくって、あたしみたいないないも同然の人間でも愛し
      てくださるの」
       愛だって?私には実和子が何を言っているのか全くわからなかった。ただ、世界が己の
      肩の上にずっしりと過重をかけている事実に突然思い致されたアトラスのように、私は自
      分が酷くくたびれていることに気付いた。ひと晩じゅう無の交差するパソコンのモニター
      を見続けた後のように目の焦点が定まらず世界がぼんやりと霞んで見える。進化の果てに
      分厚い鉛の鎧をまとった遠い未来の血族のように体が重かった。
      「いらっしゃい」と実和子は言った。
      「あなたの心も良く見えるわ。あなたは何もかもを憎んでいる。カルタゴに100回塩を撒
      いて、全人類をシベリアに送って、世界を1.000回滅ぼしても足りないくらい憎んでいる。
      でもね、同時にあなたは赤ん坊みたいに泣き叫んでいるのよ。愛してくれ、愛してくれっ
      て」
      「いらっしゃい」
       再びそう言って実和子は両手を広げた。
       愛だって?気でも違ったのか、この女は。
       どこかで見たような情景だった。実和子の腕に天使の羽のような、いや、薄茶色のやわ
      らかな鳥の羽毛のようなものが付いているのがぼんやりと見える。私はぬくぬくと暖かな
      羽毛の中にくるまれようとしていた。幻覚だ。激しい疲労感の中で私は心の奥底に隠され
      ていた何かを思い出しかけ、そして再び忘れた。何もかもがどうでもいいような気がして、
      身体から力が抜けて沈み込むように重くなっていく。
       私は実和子の腕の中で眠りに落ちようとしていた。物心ついて以来味わったことのない
      深い眠りだ。私たちをめぐる世界が、何のためのシュミラークルであるのか、リアルとは
      なんのことだったのか、そんなことはもうどうでもいいような気がした。渦を巻くように
      して意識が遠のいていった。

       この物語がどこへ向かおうとしているのか私は知らない。ただ、酷薄な神はいつまでも
      私を安らぎの中に置いてくれはしなかった。 


 名前:ダーザイン  2002年4月04日(木) 19時42分40秒 [67]  ■  ★ 

      10 消滅

       目が醒めると私は実和子の中に入った。何度も何度も身体の芯が抜けてしまうほど実和
      子の中に入り続けた。日が昇り、日が落ちて、再び日が昇り、交われば交わるほど自分が
      空っぽになっていくのがわかった。青空に溶け込んでいく薄雲の欠片。午後3時の茫々と
      した海辺で風に吹かれて散り散りになった砂粒。或いは、遠い異星で消息を絶った一体の
      ヒュ−マノイド。そのようにして、私は消滅しようとしていた。
      *             *
       実和子の肌を撫でながら、私は遠い砂漠を旅していた。なめらかな砂丘の曲面に沿って、
      首筋から乳首へと舌を這わす。燃料の切れたジープを乗り捨てて、はたはたとコートの裾
      を風に任せれば、飛砂が私たちの身体の曲面をなぞり、世界をひとつの美しい連続性で満
      たした。砂をひと掴みすくい上げて空に放つ。風の中に一瞬夢幻の王国が出現し、泡沫の
      ように消えていった。
       小さな乳房を口に含み実和子の背中をゆっくりとなでる。指尺ひとつ幅向こうの砂丘の
      上では何かがきらきら光っている。砂に足を取られながら広大な斜面を駆け登ると、光の
      暗号は消え失せて、再び遠くの丘の上で何かが光った。午後になると大気が揺らぎ、蜃気
      楼が立つ。遠く遥かな海辺の原子力発電所が空中神殿のように黄金色に輝いて、光の王の
      降臨を待ち受けていた。
       細い指を探り、手をしっかりと握り合わせると、さらに深く実和子の身体の奥を愛撫し
      た。海はそんなに近くないのだが、微かに潮の匂いがする。誰が棄てたのか、広大な砂漠
      の真中に一艘の船の残骸が半ば砂に埋もれて座礁していた。日に晒されて純白に輝く巨大
      な竜骨が青空に突き刺さり、失われた帆が空無を孕んでいる。新たな時代のノアの家族た
      ちのために何者かが用意した箱舟だ。
       やがて互いを重ね合わせると私たちはゆっくりと砂の海へ漕ぎ出した。幻の海が満ち干
      するように、実和子の中で世界が膨らみ、世界が揺らめく。熱核反応の焦熱の中で溶け出
      した砂が再び結晶し、広大な砂漠の深奥に水晶の森が生成した。日が落ちて月が昇ると、
      一本また一本と水晶塊に火が灯った。
       髪をなで、唇を求める。実和子は小さなため息をついて私の体液を受け入れた。
      *             *
       疲れると、実和子の腕の中で眠った。枯れ井戸の底の溜まり水。深夜3時の海底で蟹が
      吐く泡。或いは、銀河の果てで黒々と渦を巻くブラックホール。そのようにして深く深く
      眠り込んだ。
       時々電話が鳴って、神様が実和子に何か告げているようだった。私が受話器を取ると、
      どこか遠い所で風が吹いているような、或いは海の轟きのような微かなざわめきが聞こえ
      るだけなのだが。神さまというものがもし本当に存在しているのだとしたら、果てしなく
      遠い、寂しい所にいるのだろう。 
      *             *
       そんなふうにして、幾日経ったのかわからなくなったころ、実和子の身体が微かに透け
      ているのに私は気付いた。夜、明かりを消して抱きしめると、星々が実和子の身体の向こ
      うに灯っている。無数の遠い銀河が実和子の中で渦巻いて、億光年の歳月を超えて互に呼
      び合っていた。夜を迎えるたびに銀河の数は増し、実和子の身体は透き通っていく。
       そしてある朝、実和子は私の腕の中で冷たくなっていた。微かに残っていた実和子の温
      もりもやがて完全に透き通って消えてしまい、あとには空っぽになった私だけが残された。
       実和子の手を握り締めていたはずの掌を開くと、砂丘の上で夕日に輝いていた薔薇色の
      石英が一本握られていた。 


 名前:ダーザイン  2002年4月14日(日) 2時38分42秒 [68]  ■  ★ 

      11 ある少年の記憶(1)先衛的共産主義者同盟

       学校に行くようになったころの話だ。少年は鼻水をたらした馬鹿に足し算を教える強制
      収容所に通うことなどまっぴら御免だった。物心ついた時にはすでに、この狂った売女の
      息子は母親以上に発狂しており、激しく世界を憎悪していた。何故自分が存在しているの
      か、何故世界は速やかに滅びてしまわないのか、不快なことに、納得できる理由は何ひと
      つ思い浮かばなかった。
       世界は不可解な暗号に満ちており、少年によって読解される時を待っていた。6月の夕べ
      の空に静止した群雲の輪郭の中に、夏草を分けていく風の道筋に、銀屋根に映るお月様の
      光の中に、幾つもの煌びやかな暗号が隠されており、世界は聖なる何者かを隠す墓所のよ
      うに感じられていた。目に映るあらゆるものが、来るべき時の予兆に満ち満ちて形而上的
      な色彩を帯び、いつの日にか時が止まり世の終わりが訪れる時には、聖なる者が立ち顕れ
      てエーテルのように世界を満たすはずであり、彼にとってこの世の形而上的でない総ての
      事柄は唾棄すべきものであった。

       親しくしていた老人の、誰も会席する者のいない葬儀からの帰り、夕暮れの空にはほの
      暗いガーネットの赤が、世界を背負った神話上の蛇のように巨大なとぐろを巻き、少年が
      たどる大きな河の堤防は、暗い水の流れに沿って大きな空の下をどこまでも延び上がって
      いた。緩やかに傾斜する牧草に覆われた広大な斜面を6月の風がそっとなぜていくと、草
      叢に幾つもの茜色の焔が立った。廃棄されたタール塗りの古い木製の電柱が、立ちすくむ
      人影のように見える河川敷の廃道に降り立つと、すでに日も落ちかけて、目指す河原の林
      は火葬場から立ち昇る死者たちの魂のように空ろな影を空に刻んでいた。踏み跡をたどり、
      木々のアーチを潜り抜けて行くと、夕映えに赤く染まりゆったりと流れる大きな河のほと
      りに出る。河岸は川柳の林になっており、6月の緩やかな風に乗って解き放たれた川柳の種
      子の白い綿毛が、まるでしんしん降り積む雪のように、驚くべき密度で川面の空に浮かん
      でいた。暫し呆然と空を眺めていた少年は、自分の身体が川柳の種子たちと一緒に空に浮
      かび上がりそうになるのを感じたが、一瞬の幻覚が与えられただけで、重力の檻から脱出
      する幸運に与ることはできなかった。
       河岸に沿って少し上流に歩き、農業用水を取水する赤錆の浮いた水門の前で再び踏み跡
      をたどって林の中に入ると、孤独を愛する河漁師が住んでいた小屋がある。かつて頑迷な
      共産主義者として有名だった老人は、町の人間たちとの接触を頑なに拒んでいたのだが、
      何故かこの狂った淫売の息子である少年を拒絶することはなかった。少年は生前の老人が
      うなぎ籠を積んだ小船を静かに凪いだ朝靄のかかる河に漕ぎ出す様子や、午後の光の中で
      タンポポがまぶしく輝く堤防にうなぎ籠をだして風を通す姿を眺めるのが好きだった。ミ
      レーの手により描かれた農夫のように河辺の風景の中にしっくりと溶け込んだ老人を見て
      いると、自分もいつか年をとれば草原の中の一本の草、星野の中のひとつの星のように、
      世界とひとつになれるのではないかと夢見ることができたのだ。
       老人が亡くなった後、小屋は少年の隠れ家になった。老人は膨大な書籍を残しており、
      共産党宣言や資本論といったものの意味を理解して、老人が発狂したトロツキストである
      ことを知ったのはずっと後になってからであり、少年の目には錬金術師の書斎のように謎
      めいて見えたものだ。
       海から来る夕べの風が吹き始めると少年を小屋に招き入れ、ランプの傘の下で老人は世
      界の真理について語り聞かせてくれた。
      「いいか、この世界にはな、奪う者と奪われる者がいる。殴る者と殴られる者がいる。お
      前はどちらにもなってはいけないよ。これは偽りの世界なんだ。このような世界のありよ
      うそのものを破壊し、始原の全体性を回復するのが我々先衛的共産主義者同盟(ブント)
      の使命だ。」
       夕日に真っ赤に染まった窓辺を指差して老人は言葉を続けた。
      「見ろ、世界が燃えている。神はお怒りなのだ。燃やせ、世界のすべてのものを焼き尽く
      せ!造物主はエントロピーの増大という恩寵を世界創造と同時に我々にお与え下さったの
      だ。」
       窓辺によって見ると、夕映えに染まった空は赤々と燃えていた。雲も、風も、きらきら
      光る川面の波頭も、目に映るすべてのものが、この狂った老人の脳内風景を映し出す鏡の
      ようにみごとに炎上していた。木々の枝にも、風にそよぐ草原の草にも、そして大気の粒
      子にも、全ての細部に炎の小さな魂が宿っている。この世のありとあらゆる物が、自らの
      内部に美しい終末の炎を宿しているのだ。
      「どうだ、世界は美しいだろう。真理は美しいものでなければならぬ。三界これ火宅の如
      し、自身を焼く炎こそが真実だ。」
       エントロピーだの共産主義者同盟だのと言われても少年には何のことだかまるでわから
      なかったのだが、要するに老人は世界革命を遂行するにあたり真っ先に自らの脳の健康を
      炎の中に投じたのだろう。そういった彼の言葉は、老人が亡くなった後も、夜になると天
      上に輝くブリキ細工のお月様や、銀ラメをまとったコンペイ糖のお星様のように少年の中
      で形而上的な色彩を帯び、煌びやかなガシェットとなって輝き続けた。
       老人のいなくなった小屋の前から眺める空には、微かに燃え残った真紅のガーネットが
      輝いており、世界でたった一人の先鋭的共産主義者となった少年の頭蓋の中で、世界はま
      だ、遠い山奥で孤独な山男が燃やす薪の燠火のように燃え残っていた。全てのものを溶か
      す精神の灼熱の炎で、世界は燃やし尽くされねばなかった。 



おまけ

 名前:ダーザイン  2002年2月16日(土) 18時25分22秒 [10]  ■  ★ 

      > この小説はダーザイン先生の集大成的なものですか?

      これは小説ではなく、現実を描写しただけのものですヽ(´ー`)ノ


      注1(第3節)rain、玲音
      20世紀大世紀末を記念する偉大な作品serial experiments lainの主役の名前から採りました。
      漏れは彼女に異常な執着を抱いており、何か書くときには登場させずにはおれません。
      漏れの戯言とは直接のストーリー上の関係はありませんが、とても面白いので、
      機会がありましたらご鑑賞なさることをお薦めします。
      http://www.iris.dti.ne.jp/~niino/lain.html
      http://www.konaka.com/alice6/lain/index.shtml
      http://lain-net.com/
      http://isweb7.infoseek.co.jp/computer/y2k2d/

      注2(第4節)「おまえらには俺の目の中のジープが見えるのか?」と因縁をつけて殴る
      ぁゃιぃわーるどの固定某M氏の発言から。つぼに嵌ったので無断利用させていただきました。
      元ネタは極真の大山総裁に関るもので、異常な話ではありません。 



     ダーザイン作品集 その2 えいえんさん 地下室の手記
     デイケア日記 タマクサ 詩日記 ゼロの夏 地獄の季節


ダーザイン氏の掲示板(@詩日記) からの転載をまとめたものです。


コンテンツ:びでメール エロゲ 森の妖精 ルーザー 湖畔論 スワティ 替え歌 (゚Д゚)ハァ?

   gsの野望 AGSの野望 クエスト まったり 文学系 ぴかちう 油日記 ぶり読み ミーシャ


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