ダーザイン・ウオッチング(その16)


>d  投稿者:改め某J  投稿日:2002/10/06(日)18時48分46秒 

      ここまで言えば分かると思うが、俺が言う表象の亀裂は書く者の死んだ想像力ではなく、
      書くことの生きた想像力に寄与するものであり、そのかぎりで大先生のモードに合致する
      んじゃないかと言ってきたわけで、大先生が慮る永遠のユートピア志向という疎外論的
      な題目と亀裂の契機というハイデッガー風の存在論的な題目は一切関係がないどころか、
      前者の認識の核に陽気な陰鬱さ(まさに浜崎魚類系!)で巣くった習慣的な無根拠さを
      開示する飛躍の瞬間として俺は後者を述べてきた。まあ大先生が時代の気分と手を
      取って酩酊しながらヘーゲル的な物真似に頬を上気させつつ拘るのであれば、俺には
      これ以上酔漢の高揚を害する権利もないし勝手にやってればイイじゃんと言った感じで
      終わりだが、ただ一つだけ言えることは俺がブンガクと言うのはその手の類のことだ。
      だからこそ大先生にはブンガクを書いて欲しくない云々と愛敬を見せることも出来た
      わけだが。ついでに言うとバラードの内宇宙はそれまでSFの多くが依拠していた
      地球外が科学的に探査され想像力の圏域として色褪せてきた状況に反応した窮余の
      一策という語調を省いて云々しても何ら意味がないし、それをユング的な開発され
      ずに疎外された意識の豊穣な沃土という線上で読んでも同じように意味がない。
      あと肝心の後文を省略されて話のとば口にした引用箇所に関しては、既に書いた
      ように世界=意識が変化したということは一部の人間が一部の報告でそういって
      いるだけであり、現にヘーゲル的な疎外論に拘る大先生の世界=意識は全く変化して
      いないのだから、世界=意識は変容していないというのと同義だ。

      更に、俺が物語の類型を二種に分断したことに関しても大先生は勘違いしている。
      まあこれは俺の言葉足らずが悪かったんだが、ここで言いたいことは物語の類型は、
      現在から疎外された隠された謎=真理に向かって言葉が忙しく積み重ねられ組織
      付けられ最後にはその謎を通した疎外の克服がもたらされる探偵小説的な形式的
      構成および現実の内界から疎外された異界や異者との相互葛藤を通して両者とも
      外に向けての地平融合を結果的に実現することで自身の振幅を豊かにするという
      SF小説的な形式モデルに大雑把に分けられ、それは両相の本域問わず純文学をも
      含み古典的且つ現代的を問わず全ての小説に通底する一種の基調低音、要するに
      欲望の定型だってことで、古典的なスタイルでは作品が描けない云々という主張とは
      全く関係がない。この構図を敷衍すれば、いわゆる古風な叙事詩から近代の教養小説や
      心理小説、またはそのアマルガムたる私小説、加えて歴史小説などは探偵モデルだし、
      ノンフィクションは大抵がSFモデルだ。分断できると書いたが、むしろ両相はほとんどの
      小説では結びついており判明さは期せないと言った方がいいか。卑近に言えば前者の
      例は失われた何かを探すパターンであり、後者の例は他者や出来事との関係の中で何かが
      変容するパターンだ。こういった物語の定型の安易な踏襲が八十年代以降に特に大流行し、
      未だに続いているのは、ポモが後期資本主義と絡み合って推進した複製の薄っぺらい
      廃墟の残骸を前にしていい加減にウンザリしそれらを誰でも線路が確認できるような
      物語=意味の予定調和に還元し隠蔽しようとする時代の気分の表れであり、そういった
      中で今さらSFの可能性云々と言われても二重に驚かざるをえないといったことだ。
      そして少なくとも小説はこういった定型性を逸脱する強度を持っていることが基本条件で
      あれば、そんな反動に便乗するのはブンガクだけだ。例えば探偵小説の体裁を取ってる
      くせにその形式的構成を徐々に食い破っていき破綻に追い込む筆法を駆使した大西巨人の
      「迷宮」はそういったブンガクではない小説の一例だろう。


>d  投稿者:改め某J  投稿日:2002/10/06(日)18時48分46秒 

      何故か村上龍とか春樹とかがネタになっているので一筆すると、俺は後者の方が
      よっぽど筆達者だとは思うが、後者にまず限って言えば特に初期三部作の前二篇に
      あるのは時代のモードに目配せするために演じられた身振りとしての疎外論の
      アポリアであり、まさに当代きっての歌舞伎役者の遺憾なき実力といった感じだ。
      理念の失墜に傷つき世界や他者と深い関係を持つことを拒否した自意識が不意に
      それらと関係を結び合い傷つけあうことへの恐怖を軽妙に裁こうとする煩悶、自身に
      侵入してくる異質な感触を徐々に高まる抒情の濃度で駆逐していき自己愛の子宮を
      何とか守備せんとする葛藤の軌跡、一編中に頻出する小間物を通した軽さの演出を
      乱発して重さを相対化しようとしながらも結果的に無用の否定性に押しつぶされ
      わだかまる重さを前に頭を垂れることを読者に命じて泣き所をしっかり確保しよう
      とする感傷の強制装置、こういったコードが露骨に全面に出た前二篇に素直に感動
      できるのはまさに村上春樹の最も理想的な読者像であり、然るべき時間と箇所に
      然るべき指標が示される水戸黄門ばりの範例性にウンザリしてしまい歌舞伎役者の
      熱演に屋号を入れる気すらも起きない俺みたいなのは最も悪い読者にでもなるんだろうが、
      それはまあどうでもイイ。羊をめぐる冒険のあとのインタビューで今後は書く者の
      自意識などは弾く物語の力に全てを委ねると言って、実際そうなったが、癒し系文学
      の先陣を切ったねじまき鳥にこれまた頻出する象徴的記号の俗悪さと言ったら、まあ
      本当に読者どころか批評家サービスまで手が届く春樹ちゃんの優等生っぷりには少し
      驚かずにはいられない。井戸=イドとか「それ」とか、フロイト的な用語法をこれ見よがしに
      ばらまいているわりにはフロイト流の無意識の複数性がユング的な意識の地平から
      疎外された原型の単一性に還元されて疎外論的色彩を異常に放ち出したりしてるぐらい
      だから、大先生が村上春樹好きなのは分かるし、実際に描写のエクリチュールも肝要な
      中心に接近せずにその周囲に代理表象を連ねていこうとする傾向性に癒しのアポリアを
      際立たせようとするところなんかは巧いと言えば上手いが、世界の終わりにハードボイ
      ルドな不思議の世界が相互象嵌される作品でも隠された秘密に向かって自身を組織化する
      疎外論的やり口の不可能性を分かり易く提示することで物語の形式性を疑問に付そうと
      するわりにはその破棄を是認しないでこの世界に止まるとか言い出すんだから、まさに
      大先生が好みそうな道筋かもね。海辺のカフカは読んでないけど、まあ村上春樹は巧い
      と思うが、俺はどちらかと言えば保坂和志の方が好きだ。両者は似てると言われるけど
      前者の密室に亀裂を入れようとする契機を後者が持っているかぎり全く質的に違う。

      村上龍はまあ文字が表現に透明に奉仕する媒体でなく、単に書かれた活字に過ぎないと
      言うざっくばらんな切り捨て方があって、そこら辺がたまに奇怪なねじれを見せること
      もあるし、元々が近代文学的な遠近法を無視したジャンクな想像力の持ち主と言えば
      言えるし、ほとんど外界の認識−支配による作家の自意識の暑苦しさが漂った寓話の
      通俗性に徹するところはなかなかだが、少し羽目の外れた石原慎太郎を見せられる
      ような感じで別段どうでもいい。こういった寓話の通俗性を踏まえ違えると何や
      村上龍の作品は現代の悲劇的な解釈および展開だとか訳の分からない遠吠えが
      混じってくるわけで疲れてくるが、大先生の言う村上龍の想像力がおそらくは
      フィージの小人とかコインロッカーとかではなくヒュウガウィルスや五分後の云々
      のそれなら、もう一度そういった作品を読み直すべきだと思うね。物語の欲望に
      抵抗し書くことの想像力の淵源を開かせる描写の業と俺が上記してきたものが
      少しは実感できると思うよ。まあ村上龍の最近の作品は知らないし読む気も
      しないが。

      もういいや。最後に既に何度も記した当たり前の要点を繰り返すと、物語の定型性へ
      の欲望は容易に逃れられないからこそ、何を書くかではなく、どのように書くかが
      重要であり、そこにしか真の意味での想像力は生じないということだ。書き手の
      想像力の企図など少なくとも言葉は知ったことではない。これ以上俺には言う
      こともない。


某J 投稿者:d  投稿日:2002年10月06日(日)20時20分04秒

      疎外論と存在論が対立するものだと思っているところなど、いかにも人生経験のない
      言葉の知識だけの人だという印象を強くしました。ポモだのニューアカだのの連中同
      様自らの実存で生きてきた言葉じゃないからこんな事になる。
      疎外論の果てに無に触れるという人生体験の中で存在論的な地平が無の顔をして開か
      れ、外部が、亀裂が、人生の中に暗黒の口を開けるんだよ。

      イマジネーションについてはもう何も言うことがない。いたこのように、世界を呪現す
      る言葉が生まれ出る喜びと苦しみと驚愕。これは書いたことがある者にしかわからない
      のかもしれない。評論家に何を言っても無駄。

      頭の良い子供相手の戯れはこれにて終了。
      また、一編の詩でも、小説の続きでも、「作品に至ろうとする」大いなる試みに戻ります。


某Jのルサンチマン分析 投稿者:d  投稿日:2002年10月07日(月)19時39分00秒

      はて、おなじみの某所で某氏が小僧まるだしで発狂しているわけだが、この男の面白いところ(と言うか優
      れた所かもしれないが)は、その文体の一貫性である。どんなに発狂しても、いつものごとく全文哲学者や
      評論家の語り口の引用文の羅列で文体を整える能力と言うか、無脳症ぶりたるや、貴殿天晴れ(゚Д゚)クワ!
      と賛辞を送りたくなるような一貫性ではある。何故自身の言葉に昇華できないのか、する気がないのか、それ
      はこの男の特質である単なる文才のなさということではなく、できうる限り他者に届きうる共通言語であろ
      うとする姿勢であると仮定しよう(まるで不出来なスペキュラティブフィクションもどきのような共通言語
      だがな。わらぃ)。疎外論と存在論の連続性に付いてこの糞が論理的に(哲学書読書趣味的に)理解していた
      ことも認めてあげる。思っていたほどの白痴ではないかもしれない。
      ただあまりにも幼い。以下、この男がどのように幼いのか少し罵倒解説してみよう。

      この男が何故馬鹿の一つ覚えのように口を開けば「実存病」を批判するのかについて。

      この男は常々浜坂あゆみや尾崎豊を馬鹿を表す言葉として使い、その馬鹿さ加減の症例を「実存病」と称し
      ているわけだが、これについては同意できる部分がある。単なる自身の実存の様態をルサンチマンまるだし
      で恥かしげもなくさらすことがJポップの救いようもない下らなさの一端であることは周知の事実であり、
      ネット詩板においても、そのての中高生の詩(のようなもの)が本来的なイマジネーションに満ちた詩を猛烈
      な勢いで過去ログに流す様を見ているとげんなりする。
      だがこの糞のような男はその手のものだけを罵倒しているわけではない。実存的である全ての記述を「実存
      病」と称し、ポモ・ニューアカ的第3項的立ち居地に立って執拗に否定・排除しようとする。この男にとって
      は浜坂魚類の(ママに小遣い貰っている身の上の小便たれ=某J自身)の内面的な苦悩も、救われる道のな
      い貧民の生活苦も、決して癒えることのない病者の苦悩も、エルサレムで暮らす人々の惨苦に満ちた実存も
      、遠い異国の丘の上の地雷の上にも咲いたアザミの花の哀しい抒情も、何もかも実存的なものは一緒くたに
      されて馬鹿(「実存病」)として批判される。いったい何がそんな非-人間的な振る舞いにこの男の生を、言
      葉を、規定しているのか。
      ルサンチマンである。某Jにとっての哲学とは、自身が後者の現実的な苦悩どころか、前者のJポップ流の
      他者の中で生じる内面的な苦悩にすらも届き得ない、神経症的真空地帯にいることを隠蔽する為の装置であ
      る。「外部」だの「他者」だのもこの男のキーワードだが、いかにもこの男は神経症的に世界の「外部」に
      いるわけだ。この男が連日のように朝の5時だの4時だのといったとんでもない時間に引きこもり丸出しで既
      知外じみた哲学用語の羅列をするのは神経症の症状であり、世界の中にいない自身の空虚な実存を無意味無
      内容な言葉の羅列で埋めようとする、最初から敗北している哀しくも虚しい振る舞いなのだ。哀れ(ρ_;)
      要するにこの男の実態は浜坂魚類以下なわけ。世界の中で現実に存在していない自信の在り様が醜いルサン
      チマン丸出しの実存批判となって現れているわけ。

      神経症は豊かに花開く生を無意味で無駄に浪費し、人生を消し去ってしまう。ただ、神経症は他の精神障害と
      は違い、病院に行くなどしなくても、自ら自覚し、生き方を変えようと努力すれば克服しうるものだ。「生活
      の発見の会」に通って森田療法を実践するなどして、貴殿が豊かな実りある青春を送られることを祈る。


症例 投稿者:  投稿日:2002年10月07日(月)20時05分21秒

      [私はずっとひとりぼっちだろう。誰も私のためにはいっしょにいてくれない。]
      [私は自分の感情を制御しなければならない。さもなければ、何かひどいことが起こって
      しまうだろう。]
      [私の要求に応え、私を守り、私の面倒を見てくれる人など、誰もいない。]
      [それから、上のスキーマにはないけれど、境界例に特徴的な認知の歪みとしては「二
      分法的思考」が有名。これは、ものごとを100か0かで判断してしまい、中間がない、とい
      うもの。
       たとえば、他人にしても完璧に信頼できるかまったく受け入れられないかどっちか。信
      頼できるかのように見えた人物が実はそうでもないことがわかると、たちまちまったく信
      用できない悪の権化ということになってしまい、突然敵対者に変貌した人物に対しての
      強烈な怒りが生まれる。客観的に見れば別にその人物は全然変化していないのだけれ
      ど、境界例の人にはそうは思えないのですね。自分自身についてもそうで、ちょっとした
      欠点や短所が取り返しのつかない全面的な欠陥のように思えてしまい、いきなり深い抑
      うつと不安に襲われる。なんにせよ、「ほどほど」「中間」といった評価を考えられないの
      である。
       ま、物事を単純に「善」と「悪」、「正しい」と「正しくない」に分けてしまいがちだというこ
      の「二分法的思考」は、人間誰しもある程度は持っている欠点だし、最近特にそういう人
      が増えてきたようにも思うのだけど、境界例の人はそれが極端なのだ。]
      [まずは、慢性的な空虚感。そして感情の不安定さ。ふだんは空虚感に悩まされている
      ものの、何かささいなことをきっかけに、2、3時間にわたる強烈な怒り、パニック、絶望
      などを感じることがある。
       それから、見捨てられることを避けようとする異常なほどの努力。一人でいることに耐
      えられなかったり、他の人に一緒にいてもらいたいという欲求が非常に強く、ときには自
      傷行為や自殺企図のような衝動行為になって現れることもある。
       自己像や自我感情の不安定さ。目標、価値観、志望する職業などについての考えや
      計画が突然変化する。目標が実現しそうになる瞬間に、それを台なしにしてしまうことも
      ある(卒業直前に退学するとか、よい関係が続くことがわかったとたん関係を壊してしま
      うとか)。彼らは通常、自己像を悪いものとしてとらえており、ときには自分がまったく存
      在しないと感じていることもある。]


 投稿者:d  投稿日:2002年10月07日(月)21時18分23秒

      書いていて非常に気分が悪くなったのでもうやめる。
      事実であっても言っていいことと悪いことがある。
      ネタにもならない罵倒は最低であった。
      心に優しい気持ちがないと人間ダメ。
      人間失格な気分なので風呂入ってくる(;´Д`)ンムハァ


 投稿者:d  投稿日:2002年10月07日(月)22時08分56秒

      やっぱりちゃんと書いておかねばならないな。
      彼はイマジネーションに関しては全く理解がないが、
      哲学史・思想史の理解は某Jと俺とでは雲泥の差があるのは事実。
      かなうわけない。ただ実存的立ち位置が決して相容れない所にあるということ。


唖然とさせられた  投稿者:改め某J  投稿日:2002/10/07(月)00時59分04秒 

      つーかさ、ダーザインのサイトを読んで思ったんだけど、誰が疎外論と存在論が
      対立するなんて言った?

      俺は疎外と回復をめぐった「不可能性と不可避性の間を揺れる緊張の生々しさ」について
      論じたような、安易なヘーゲル流疎外論を批判的に超克する展望がハイデッガーには
      あるということを記し、わざわざヘーゲルとハイデッガーは全く違うと当たり前のこと
      を親切にも念を押しているにも関わらず、こういった文字面を読むこともできずに相手
      の意見を踏まえず自分の言いたいことだけを偏執的な頑迷さで一方的に語り続けて
      ご満悦する自身の再三にわたる病的な失読症っぷりを棚上げして、おそらく実際には
      読んだこともないのだろうヘーゲルとおそらく大昔に囓ったことしかないのだろう
      ハイデッガーの相違も弁えられず、俺がふと指摘した疎外論という言葉と概念の響きに
      酔ってその内実を正確に把握し腑分けしようとすることもせず単に両者を混同し実存の
      一欠片もない鸚鵡のように実存の言葉云々という江藤淳めいた隠語を繰り返した挙げ句が
      評論家には何も分からないというダーザインウオッチング以来のお約束の遠吠えで、
      話の締めは自己の優越性を周囲に向かって殊更顕示すべく疲れた哀感の込もった表情で
      溜息交じりに何も分かってない坊やとの戯れはいい加減に終わりです、だって。

      アンタイッタイナニサマノツモリ?

      今日という日ほどダーザインという人間の薄汚いナルシシスティックなオザキ病的
      性格を心から感じさせられたことはないね。というか、これは既に人間としての
      品性の程を疑わしめるに十分だ。言葉の奴隷商人と前文で言ったが、言葉だけでなく
      人間すらも自身を満足させるだけの道具として使用して憚らない神経の持ち主らしい。
      ダーザインのサイトから変な馬鹿が的外れな半畳入れてきたが、まさに同臭相寄ると
      いった感じだったわけか。実存実存と自身の体験の重みとやらに縁取られた言葉を
      特権化してそれらをキルケゴールの切実さもなくただヘーゲル的に想起し反復し、
      狭い世間での鏡に向かった自己問答を人生経験の重みとやらにすり替えて語る価値が
      あるとでも思いこむ、真摯さしか取り柄がない私小説的な、またはカルチャークラブの
      作文講座的な感性の古くさい醜悪さが無根拠に誇示するふぬけた矜持ときたら、まあ
      自分だけが真剣に生きてるとでも思ってるんじゃないの。真面目に長々と付き合って
      本当に馬鹿を見たな。二度とダーザインには関わりたくない。不愉快だからダーザインは
      もう二度と書き込まないでね。まあ実存の言葉、その実、キルケゴール的な実存の緊張すら
      ない惰性のヘーゲル的反復の殊勝さとやらを知らない満腹ガキのお子ちゃまの掲示板に
      わざわざ素晴らしい神託にも似たお言葉を書き込むことももうないだろうけど。気の合う
      お友達と死ぬまで温々とドングリの背比べやってなさい。こっちはこっちで背比べやるから。


唖然とさせられた2  投稿者:改め某J  投稿日:2002/10/07(月)02時51分41秒 

      ダーザインの掲示板を読んで言い忘れたことを付け加えると、そもそもいやしくも
      文学に関して論じている場に文学に対しては全く外在的な、人生経験が俺はあるから
      お前より物が分かるし偉いんだと言いかねない中間管理職的な戯れ言を持ち込んで
      やり取りをまとめようとする陰湿極まる姑息な感性のありようは相応に真摯に対応
      してきた相手を完璧に舐め腐っている証拠であり、自分だけが真摯に生きており
      他人は自分と同じように生を実存していないと思いこむことでしか自身を活かせ
      ないクズの発想であり、これ以上に不快な腐った負け犬根性もない。

      こういった封建的な発想が描写というと私小説しか連想できない文学的感性のみ
      ならず人間との関係の場にまで現れているような奴が現代文学が云々と言ってる
      んだから笑止千万この上ない。ダーザインが好きらしい笠井的に言えば身も心も
      典型的な「オヤジ」であり、ヘーゲル的疎外論とハイデッガー的存在論の明瞭たる
      差異も踏まえず、全てを実存の言葉云々というイメージで表象し代行させて憚らない
      ダーザインの態度のありようはつとに日本という一つのイメージで世界を語り尽く
      そうとする大正時代との近親性を指摘されたポストモダンの典型的な浮かれ気分を
      象徴的に表している。実存や存在という一定の記号のみで世界の感慨を啓蒙的に
      おしなべて一様に語ろうとし中東情勢などに関する微細な個々の具体的な差異への
      感受性を全く持とうとせず、言うことと言えば実存の凄みやらエルサレムで無が
      触れてくる云々としかいつまで経っても言えない脳天気なコスモポリタニズムへの
      偏愛こそがポストモダンの気分だってことも知らずに、俺がポモっぽく自分は
      実存の言葉を語るものだ云々とほざける低俗さは現代の不良債権以外の何ものでも
      ない。まるで武者小路の人類主義の欺瞞や中野の不遜さを見ているようで反吐が出る。
      自身こそがポストモダンの病理を一身に体現していることも無知と不勉強ゆえに
      知ろうとせず、だからこそ自己検証を通してその病巣を摘出しようとする根性もなく、
      ただ単に私小説的な真摯さと実直さだけが取り柄のポモ批判で浮かれられる実存病の
      酔漢はほとんど暴漢であり、本当に手に負えない。まるで東とやり合う笠井の無自覚
      であるが故にタチが悪いポモっぽいシニシズムと大差がない。なにが疎外論の果てで
      無が触れるだよ。疎外論は無を意識が事後性のずれを圧殺し透明に内面化した段階で
      可能になるものであり、したがって無は疎外論という自意識のモードの可能性の条件で
      あると同時に不可能性の条件であり、意識の地平を瞬間瞬間のうちに隠喩連関として
      生成定位させる贈与の別称であり、果てなんぞに通わなくともすぐ自身の足下に蠢く
      ものだってことすら知らないのか。抹消線を引かれたのは、隠喩連関に貫かれた生の
      語りから不断に逃れ痕跡しか示さないからで、生という小島の足下を浸潤し取り
      囲む大海であることに変わりはない。本当にハイデッガー読んだことあるのか。
      こう言うと存在や無や実存という言葉はそいつらから借りたものではなく、
      生きられた固有のものだとか例によって言うんだろうけどな。全く実存主義などに
      通じなくとも、ハイデッガーと拮抗することを知らず知らずに言ってしまうほどの
      安吾を少しは見習ったらどうだ。

      大した人生を送っていない奴にかぎって自分の人生を何か大層貴重なものである
      ごとく語りたがるのは世の常で、カルチャークラブの作文講座もそこに便乗して
      流行するものだが、人生経験の場数を本当に踏んでいる人間が今の今までやり取り
      していた相手にこれほど舐めた対応を返してくれるわけもない。他者を欠いた実存の
      牢獄に閉じこもって写経を黙々と独りで連ねることが人生体験の嵩を増してくれると
      でも思える世間知らずの人生なんぞはまあこれほどのものだろうが、社会はそんなに
      甘くない。馬鹿にかぎって世間と社会を混同するが、社会的ななものの根底には自身
      を外から鷲掴みにしこちらの意向など知らずに問答無用で引きずり回す他者性がある。
      それを内面化して社会を世間に転倒させ物を語ろうとする人間には社会も他者も現実も
      なく、ただ世と生を儚む出家僧の憂鬱しかない。何がニューアカ同様の自らの実存で
      生きていない言葉だ。カルチャークラブ風情の言葉の装飾に凝ってる暇があったら、
      少しは自意識の循環経路を形式化の還元で剥ぎ取っていきニーチェ的な実践に没頭した
      せいで一時期ほんとうに気が狂いかけて言動がおかしくなった柄谷の心意気でも
      見習ったらどうだ。

      全く気分が悪い。もう二度とダーザイン関連を書くこともない。これで終わりだ。


本当に唖然とさせられた  投稿者:改め某J  投稿日:2002/10/08(火)05時17分23秒 

      なにかクリ島付近で今回の騒動がネタになっているので不快だが
      一応そのことについて一言しておこう。

      まだダーザインは自身の掲示板に俺の指摘に相応に応答するだけの殊勝さもなく、
      自分が決して泥を被らない安全な高みから俺のルサンチマン分析と称して言説分析の
      自己批評的な緊張感すらなく自身の過去を俺に情緒的に投影し勝手に妄想を膨らませ
      社会の正規コースから落伍した飲み屋でクダ巻くオヤジ的な教訓を垂れて悦に入る
      というまさにルサンチマン全開の駄文をひけらかしては、勝手に自虐的に反省し、
      お互いの実存的姿勢の相違が相容れなかった云々と話を締めくくろうとしているが、
      俺が不快さの原因として指摘した箇所についてはいつものように都合良く黙殺した
      だけの自己完結に終始し続けており、マトモに相手にするのも馬鹿馬鹿しくなる。
      俺が不快を感じたのは何もダーザインが因縁を付けたことではない。重要なのは
      お互いの実存的立ち位置云々といったご大層に大仰な話以前の、今の今まで
      やり取りをしていた相手に対する舐めきった態度の問題であり、因縁を付け終えた
      あとの腐った態度の問題であり、その指摘すらも真面目に受け取らず自己正当化の
      ための韜晦を延々と続けようとする心性の問題であり、相手が激昂した理由を
      正確に把握しようともぜずに自分も気分が悪くなったからもう思想が異なる
      人間には絡まない云々と言うだけで自身の病巣を直視しようともしない精神性
      の問題であり、ネタとマジレスの分別も付かず都合が悪くなると全てをネタで
      収めようとしかねないふざけた神経の問題だ。何を言っても馬耳東風であり、
      相手の指摘を相応に受け止めようともせず、他人は他人だからと切り捨てて
      現実的な生のありようとは断絶した内面的な自己規定に平然と閉じこもることが
      できる面の皮の厚い人間以上にポモ的な存在はない。実際、ダーザインのような
      性格構造こそがニューアカの仕掛け人たる浅田によってポモの時代における
      理想的な人間のあり方と賞揚されたことすらニューアカニューアカと馬鹿の一つ
      覚えのように言うわりには知らないんだろうが、自分はこういう人間であると
      確信する主観的な自己規定にのみ自閉し、現実的な生のありように関する他者の
      指摘を黙殺し続け、自分というものを一切見ようとしない人間、これ以上の
      現代に残存するポモの不良債権はない。

      フロイトを出すまでもなく何らかの目的に向けて行動を組織化する生はそれ自体が
      神経症的であることなど言うまでもないが、俺を神経症と指摘するダーザインの
      神経症はさらに境界性人格障害まで無自覚に患っているのだからタチが悪い。
      生の空虚さを他人との接触の中で癒すためには相手の迷惑を一切顧みず、自傷や
      自殺願望をことあるごとに吐露し、そのくせ相手の言い分など全く耳に入らず、
      自身の欲を満たすためだけに相手を身勝手に利用して憚らない心性のありようは
      昨今急増している典型的なボーダーの振る舞いであり、これ以上の神経症の見本は
      ない。社会との接触を立たれた無菌室で我が儘に甘やかされて育てられた子供は
      幼少期から引き継いだ誇大妄想的な全能感が社会的に去勢されることもなく、自身の
      意向などは一切解することない他人との関係の中に入ることで自分の無力感を
      徹底的に叩き込まれて抑鬱症を患いがちだが、この典型こそがダーザインの言動の
      随所に滲み出ている。例えばダーザインの酷愛する永遠という言葉には自分を胎児
      がごとく包み込み自身の欲望の一切を受け入れ神のような万能感に浸ることを許す
      母とのナルシスティックな癒着関係への願望が示されているが、そのような小学校
      低学年のような感性を他者との関係の次元にまで拡げて、そのことを指摘されれば
      素直に事態を認めた上で他人の四の五のも論おうとする殊勝さもなくただ単に韜晦を
      続けるだけで自分に都合が悪いことは一切聴こうとせず平然とできるダーザインの
      薄汚さには唖然とさせられる。去勢以前の自分の全てを許容する母との想像界的な
      ユートピアへの願望自体が去勢された事後における自己疎外の幻想であり、回復を
      求める求心的運動は同時に疎外を促進する遠心的な運動と相即した悪循環を産み出すと
      批判したハイデッガーをどうやらダーザイン自身も少しは踏まえられているようだが、
      ハイデッガー自身が何度も繰り返しているように、存在論は疎外論ではない。両者には
      連続性ではなく、疎外と回復をめぐった悪循環を断ち切ろうとする断絶性こそが認め
      られるものだ。両者を結びつける発想はサルトル流の人間中心主義であり、それを
      ハイデッガーが一貫して毛嫌いしたのも既に哲学史的な常識に過ぎない。この相違も
      分からずに存在や無がああだらと言ってるんだから、全く噴飯物である。こう言うと
      自分の存在論や疎外論の概念範疇はそこらからのものではないとか言うんだろうな。
      そして自分の言葉でお前は話してないとか言うんだろうな。全く自己イメージを守る
      ための韜晦を条件反射化されでもしているのか。

      こういったハイデッガーのサルトル的解釈をダーザインが前提しているところは
      しきりに口に出される想像力の地平にも当然に関わってくる。そもそもダーザインの
      想像力に関する発言は五十年代に日本で服部達に主導された想像力論争の範疇を
      全く脱却していない時代の遺物に過ぎない。だからこそダーザインの言がその想像力
      論争をたたき台にして実存主義的な文学理論を構築した頃の江藤淳に似てくるのも
      当然である。江藤もしきりに自分の言葉、実存が生きた言葉と鸚鵡のように繰り返し
      ていたが、まさにサルトルの実存が世界即自己の独我論であり、他者を欠いていたように、
      江藤の実存も他者を欠き、ダーザインの実存も他者を欠いた自己愛の密室以外のものを
      示していない。その自己愛は母なる自然に抱擁された全能感への希求に結びつくが、
      その不可能に直面させられ、永遠などなかったと呟くしか出来ない自虐的なナルシストを
      産み出していく。江藤とダーザインは似た者同志だが、前者の方がまだ実存の重い言葉が
      氾濫する流通語の軽薄さの中に徹底的に消失したという冷静な現状認識を持った人間だ。
      正確な自己認識を持った現代の実存の最終的な末路は既に贅言だろうが、少しは実存
      の徹底化の果てに時代に自爆するぐらいの気概を見せた江藤でも見習ったらどうだ。

      自分の生の空虚さを癒すために他人を巻き込むくせに相手の指摘には耳も貸そうとせず
      ひたすら同じことを九官鳥のように言い立て独善的に振る舞ってご満悦する境界性
      人格障害者ダーザインが言うところによれば、俺は浜崎魚類系やオザキ病系の真摯な
      生を馬鹿にしているらしいが、俺が馬鹿にしているのは歌詞の内容や行動の内容で
      あり、その生の実存=形式ではないことにも気づかないらしい。挙げ句の果てには、
      貴重な睡眠時間を削って毎日の生活リズムを崩してまでダーザインの支離滅裂な
      発言に長時間かけて書いた文章で真面目に応答しつづけた俺という生の実存を
      こき下ろす始末だ。浜崎魚類系やオザキ病系の実存をその生の形式的な真摯さで
      顕揚するなら、俺もその生の形式的な誠実さで同価に論じなければならないところを
      恣意的に分断し、相手を貶すためだけの勝手な価値裁断を施していく手つきなどは
      まさに俺への憎悪に満ちたルサンチマンそのものだが、一体何様のつもりなんだろうかと
      本気で思わざるをえない。ついでに言うが、独り暮らしの俺の平均的な睡眠時間は
      一日二時間であり、こんな文章を明け方に投稿しようが関係なく大学にも仕事に
      も出る。明け方の投稿者は午前は寝ていると一方的に思いこむのもダーザインが
      いかに世間知らずで人生経験がないかを示す証拠に過ぎない。

      ここまで書いてきたが、どうせダーザインには文意の欠片も伝わらず、またお約束の
      ように鏡の前の自己問答に相も変わらず進歩もなく終始するだけなのだろうと思うと
      心の底からウンザリさせられる。前にもう二度とダーザイン関連は書かないと言って
      こうまた書いているが、これを書き終えた段階での不快な徒労感は二度と忘れること
      はないだろう。

      これを最後にもう今後ダーザインには二度と関わることもない。


本当に唖然とさせられた2  投稿者:改め某J  投稿日:2002/10/08(火)07時07分47秒 

      ありきたりなクダラナイ誤解を避けるために最後に少し補記しておいた方がいいな。

      境界性人格障害の誇大妄想系自虐的ナルシストたるダーザインに言わせれば、
      俺は実存をおしなべて否定しているらしいが、俺は他人の実存を否定するような
      発言を一切したつもりはない。俺が前文で浜崎魚類系やオザキ病系の生の形式的な
      真摯さというのは、自身を取り巻き貫く状況が例え幻想であろうと端から見れば
      クダラナイものであろうとも一生懸命に生き抜こうとする生の切実な決意に
      関するものであり、そのサルトル的な実存の至高価値を構成する決意自体は肯定
      している。この手の実存の端的な例はドン・キホーテであり、カミュもそういった
      絡みでそれを賞揚していたはずだが、しかしこういった実存は自身がこうであると
      思いこむ主観的な規定を超えた現実的な自身のあり方を全く度外視する。生の内容を
      一様に馬鹿にすることは生の形式そのもの、生きているという事実それ自体の否定だ
      と言う理屈はここでは通らない。この理屈が通れば、ダーザインが偏愛する中道情勢に
      苦しむ人間を蹂躙するらしいアメリカという帝国で日々を安穏と享受する加害者も
      被害者達と同一平面上で日々を例え内容的にゴミのようなものであろうと切実真摯に
      実存しているはずの等価な生として肯定しなければならないからだ。それにも関わらず、
      ダーザイン自身は都合良くそういった負の性質には決して言及しようとせず、
      オザキ病系や浜崎魚類系といった日常的な地平から徐々に生活苦に貧窮した人間や
      パレスチナの人間といった日常からは目に付きにくく、故に読み手の素朴な同情を
      安易に誘える情緒性の高い対象へと筆を移し、最後にはアザミの花などという
      可憐さを表徴する通俗極まる詩的表象に焦点を絞り、その可憐な生を嘲笑う
      らしい俺という人間の負のイメージをしきりに扇情しようとするだけであり、
      そのイメージ操作の凡庸さにはほとほと呆れざるをえない。そもそも生それ自体が
      等価に真摯であるならば等価にクダラナイものと考えることは論理の必然であり、
      だからこそ一方は悪であり一方は虐げられているという被害と加害の弁証法を
      道徳的に論じることも初めて出来るにも関わらず、そういった前提すら持たずに
      パレスチナ情勢云々と言っていたのかと思うと愕然とせずにはいられない。
      挙げ句には俺という生の実存を何とか否定しようと躍起になって、他の無数の
      実存とやらを道具的に引き合いに出そうとする。ほとんど醜悪な矛盾であり、
      ここだけでもルサンチマン分析を開陳すると称する自分の癒しがたいルサンチマンを
      自己告白しているようなものである。

      俺は生それ自体が無償に価値ある素晴らしいものだという老人性の感傷とは全く無縁だが、
      他人の健気な生を前にして素直に頭を垂れるぐらいの謙虚さは少なくともダーザイン
      以上には持ち合わせているつもりだ。生の実存的な形式を肯定する前提を踏まえた上で、
      オザキ病や浜崎魚類の生の内容的で現実的なあり方を馬鹿にしているのだ。相手の
      生の自由を是認するとはそれを黙認する相対主義への自閉ではなく、相手の自由さが
      陥る盲目を徹底して批判し哄笑することであり、且つ盲目を批判する相手が孕む別の
      盲目を批判し返し哄笑し返すことを正確に把握した上で自身の病巣を摘出しようと
      する相互環流の中にしかない。そうしなければ、何かを価値判断することが実存的な
      生への冒涜になると言うような相対主義的な思考停止に陥ることすらも分からないのか。
      それこそ正にポモの気分である。だからこそダーザインの書き込みに俺は答えようとし、
      ダーザインの因縁の付け方自体は極めて正当だと評価したのだ。こういったことに
      関して、俺が浜崎魚類系の生の事実そのものを肯定しているというのが嘘だと思うなら、
      去年の7月頃のログにそれに関する文章があるから読んでみろ。

      この程度の分析という名の一連の作為的なイメージ操作でダーザインが事実でも
      言って良いことと悪いことがあるというのにも驚かされる。これぐらいで本当に
      俺が傷つくとでも思ったのか。最後に一つ昔のよしみで助言すれば、罵倒する
      相手を本当に殺せるぐらいの文章も書けない人間は見ず知らずの他人を救い助ける
      ような文章も決して書けない。それぐらいの気迫も強度なくパレスチナ人が云々
      と言うのは詩人として単なる怠慢だ。

      最後最後と言って延々と書いてるな。いい加減長々と続いたがまあこれで本当に
      最後だろう。


 投稿者:d  投稿日:2002/10/11(金)18時26分02秒 

      某Jはひきこもりだとかってに思い込んでいたので大変失礼した。
      貴重な時間をどうでもいい話で浪費させてしまい、非常に申し訳なく思っている。


>   投稿者:改め某J  投稿日:2002/10/20(日)15時18分05秒 

      > これは、ダーザイン師の言を借りれば「自分の実存で語らない坊や」の如く他人の言葉を
      > 拝借し「ヘーゲルも読んだことも無いくせに」と自らの言葉を情けなくも権威づける
      > ことによって自己の「正義」化を図ろうとする某J先生のセリフとは思えませんね(^^;ワラ

      冗談にしても救えないと思ったがどうやら本気だったみたいだな。他人の板で
      しかるべき節度を弁えることを知らないお行儀の悪さに他人の引用文の含意すら
      踏まえられずに話の次元を都合良くずらしてまで自身の非を何とか回避しようと
      する自意識肥大症な頭の悪さが相乗するとキモイマンもここまで救いがたくなると
      いうサンプル提供例みたいなもんか。勉強にはなるが本当にウザイな。

      あまりに悲惨なのでもう一度稀にみる単眼昆虫的なホームラン級の馬鹿なあんたの
      ために前文をもう一度まとめて言ってあげよう。俺はなるほど適当にやればとある
      時点で言ったが、その適当の範囲を自身に都合良く拡大解釈し、あまつさえその後に
      俺が警告のかたちで示した有効範囲を無視してまでやりたい放題を押し進め平然として
      いるどころか不満の一つでもこぼしはじめたと思えば、挙げ句には俺が良識的に指摘した
      非を認めた上で四の五のやろうとする度量も持たずに傲然と居直り過去の文をご丁寧にも
      強調符付きで引用してまで自身の正しさを印象づけようと躍起になってお見事な捨て
      台詞まで残していけるあんたの面の皮の厚い傍若無人な独善に対して、こちらは一貫
      して極めてネチケット風味の素朴な範疇で不快を示しているだけなのにも関わらず、
      まあ言葉の責任をとらない云々と言われても全く憐憫すらも通り越して本気であんたの
      人格のほどを心配するしかないということだ。小学校で他人が嫌がることは止めましょうね
      と習わなかったのか。誠意やら他者性やらといったご大層な問題以前の、関係の場で
      弁える然るべき良識のありようを俺は一貫して問うているということも理解できないとは
      全く心の底から同情するよ。この手の馬鹿が表の普通の掲示板を荒らしておきながら
      そのことを非難されると不快因子を排除しようとするファシズム的な心性だとか、
      仲良く馴れ合うお友達ゴッコって本当にイイですね(^^;ワラ とか居直って相手を
      揶揄しかえそうとする人種なんだろうな。憐憫を感じるなという方が無理な話だ。

      まあこういった俺の管理人としての至極真っ当な言い分の含意も汲み取れず訳のわからん
      ご託を並べて相手を罵倒し自身の正しさを誇示しようと懸命になる怨恨の情念で濁りきった
      あんたの認識の欠陥をもう一つ指摘してあげよう。無責任さ云々については既に述べたので
      贅言は不要だろうが、そこに後続する箇所、俺がポモ的な相対主義を自分を棚上げし全く
      省みないで超越的に批判してる云々と書いてるが、俺はあんたがまさに引用した文の中で
      「ポモを悪し様にいう奴にかぎって自身の病症に自覚がない否認の習癖があるもんだが」と
      わざわざ相応の自戒も込めて記しているのに、そのほんの一文すら踏まえられずに何とか
      俺を罵倒しようと(またはその罵倒を餌にカマッテもらおうと?)妄想めいた小言を一方的
      に押しつけられても、他人の文を曲解してまで独り善がりを貫こうとするあんたの甘った
      れた性根の浅慮さを別の角度から実践的に告白する露悪趣味としか解釈できない。
      そういったことも含めて、どうやら自分が書いてることをよく理解してないんじゃないのか
      という俺の言は案外に的を射ていたらしいと思わずにはいられないね。加えて、せっかく
      意志決定が云々という問題を勝手にやれと一応の免状を出されたのに、俺への嫌味に
      精出したようなエネルギーをそっち方面に投入しなかった(出来なかった?)ところを
      見ると俺の指摘は更に妥当性を増したといえば穿りすぎかな。まあこう言ったからと
      言って今さら焦ってその手の問題をやりだそうとされても泣けてくるけど。

      ところでダーザインを何故か引き合いに出しているが、最近また他人の掲示板に
      懲りずにちょっかいだして相手を巻き込んで騒いでいるダーザインですら、その
      掲示板でのやり合いは管理人や他の人達に迷惑がかかるから自分のところでやろうと
      当の相手に提言するだけの最低限の分別を持っている。管理人が実際に文句を明確に

      示しているにも関わらず、不快な奴を排除するお前が一番横暴だなどと居直り強盗
      よろしく言いかねないお前のような救いがたい魯鈍の代名詞よりはやはり数段マシ
      だったようだな。ダーザインも他人の言い分を全く踏まえず自分の言のみを一方的に
      積み重ねる悪癖があるが、まあそのような意味でダーザインに「師」と敬称を付けている
      ならお前の同類を察知する嗅覚も大したものだ。それにしても彼一流の直観とやらを
      評価するまえにダーザイン師の上記のような分別と節度ぐらいはあんたにも評価せずに
      はいられなくなって欲しいもんだけどね。まあしかしこのように書いていくとお約束の
      ように金輪際文句を言わないとお前が書いたから俺はそう書いたんだ、また言行不一致
      ですか(^^;ワラとか、良識というコードを介した鏡の前の自己問答ですか(^^;ワラなどと、
      こちらの指摘の文脈など意に介さずルサンチマンを全開にした退屈な皮肉を打って
      こようとするのがこの遅鈍と厚顔の神を味方に付けた馬鹿の特徴だが、いくら何でも
      そこまで自滅的にネタ未満の戯れ言を弄することを禁欲するぐらいの「良識」は持ち
      合わせているだろうと思いたいね。それすらもないようならある意味尊敬に値するけどな。
      是非ともこんな場末でくすぶらずにクリ島付近でダーザインと二大固定として覇権を
      唱えあってほしいね。

      まあしかし適当の範囲を制限した管理人たる俺の警告など知ったこととではないと言い
      切って憚りかねない心性の持ち主にドングリの背比べでも正義然とやってなさいと切り
      捨てられると何だかほっとしてくるというのが率直な心情だ。もうあんたが決して書き
      込んではくれないのだろう、まさか二度と書き込もうと変心することはないのだろう、
      そう思うと惜しみない感謝の念を君に示したい。今までの嫌味皮肉と呼ぶにはあまりに
      知性と人格の程に見合った稚拙劣悪な芸のないそれらを代償として甘受するだけの
      価値すらあるかもしれない。今後正義然とやるかどうかは知ったことではないが、背比べの
      悪循環を何とか脱そうと頑張るドングリ達の相応に真摯なお遊びを関係の場に出すべき
      人格がどうひいき目にみても小学校低学年の段階で停止しているキモイマンにお構いなく
      勝手にやり続けられるということは素晴らしいね。今日という日に心から感謝したい。
      チアーズチアーズ。

      それでは引き続き改め〜某Jの掲示板は彼抜きで進行したいと思います。今後とも
      彼または他人の個人掲示板で弁えるべき最低限の節度も知らない失読症のキモイマン
      及びカマッテ君以外の方々のご愛顧はテキトーにお願いします。


 投稿者:d  投稿日:2002年10月22日(火)21時56分06秒

      以前神経症的であると指摘した某Jであるが、神経症であることは別段恥ずべきこ
      とではなく、世界は神経症どころか総合失調しているわけで、文学徒であろうと駄文
      書きであろうと書き手も失調していてしかるべきであり、失調していない所に世界が
      新たなリアルが開かれるわけがないわけだが、問題は「自覚」である。自信の失調を
      意識して意図的に生きているかどうかということだ。某Jがいくら哲学用語をを並
      べ立てても世界の世界性に届きえずポモ・ニューアカ的第三項的立ち位置に立った空
      言になってしまうのは、その無自覚さ、世界と自己の変容を意識して生きていないか
      らなわけ。だからこの手の男と会話なんて不可能。自意識の袋小路で延々と空言を呟
      いている者に「おまえには他者に触れる能力が欠如しているよ」などといってみても、
      裸のランチならぬお子様ランチの彼には削除されて出入り禁止だの二度と関らないだ
      のとの賜られるだけなわけ。

      つーか、勿論、そもそも掲示板なんて物は世界と同じように本来的に神経症的な物であ
      るわけで(ここも勿論そう)、その失調した在りようをどのように意図的に生きるかが肝
      腎なの。文学というもののありようもそう。



おまけ

 投稿者:   投稿日:2003/08/10(日)12時02分59秒  ■  ★ 

     http://homepage2.nifty.com/tosyo/book25.html

     ダーザイン 著 武田恥人 翻訳

     「えいえんなんてなかった」

     武田恥人。北海道生まれの道産子。若いころは酒とススキノ遍歴に明け暮れ
     バブリーな暮らしの傍ら詩や散文を書き続けていた。ネットが普及すると詩
     文をアングラネットの掲示板に投稿、公開するようになるがチャンコロの興
     隆とともに常駐していた廃墟は廃れ、あやしーワールドに移住。
     あやしーワールド、特にレミクスでは存在論的差異が理解できない屑ぢもに
     全く受け入れられず、掲示板を有らされたり、荒らしたり表サイトに迷惑を
     かけたりしているうちに不況の影はいよいよダーザインにも迫ってきた。
     彼は職を失い精神をわずらうようになる。

     中年になってから生活のために障害者となり240万を獲得、デイケア施設で
     条件の悪いケアを罵倒し続ける。その体験を下に、50歳でかいた最初の小説
     「光の王」(ネットに公開されていた小説を改作)が売れ、そのころから天
     才的大詩人としても高く評価されるようになった。
     曰く天才的大詩人は世界にただ一人。

     本書は、名声を手に入れた後、クリスマス島郊外に建つプール付の家に妻の
     ほえ子や原住民たちと暮らすダーザインが、老境の日々の行動と省察を飾り
     気のない言葉でつづった日記である。といっても、屑人間の含蓄に満ちた語
     りなど期待するのは間違いだ。年をとっても、生活が安定しても、ダーザイ
     ンの過激なルサンチマンぶりは健在である。おさしみ!おさしみ!



     ウオッチング その1 その2 その3 その4 その5 その6
     その7 その8 その9 その10 その11 その12 その13 その14
     その15 語録集 その1 その2 その3 その4 その5 その6


@えいえんなんてなかった & 某Jの掲示板 からの転載をまとめたものです。


コンテンツ:びでメール エロゲ 森の妖精 ルーザー 湖畔論 スワティ 替え歌 (゚Д゚)ハァ?

   gsの野望 AGSの野望 クエスト まったり 文学系 ぴかちう 油日記 ぶり読み ミーシャ


戻る 


inserted by FC2 system