ダーザイン・ウオッチング(その15)


>ためいき 投稿者:d  投稿日:2002年10月01日(火)06時27分53秒

      >  その某Jさんもおまえも典型的な左翼だよ。言説で世界を内包できる錯覚
      > を生きているだけだよ。ジョン・レノンと変わらない。なぜ凡庸であるこ
      > とに気付かないのか、不思議で仕方ない。イスラエルもパレスチナもアメ
      > リカも存在しないよ。左翼の実体はプチブルなんだ。「自意識」なんだよ。

      このような物言いほど無意味なものはないな。お前の物言いにしたがえば巨大な札
      幌駅の一隅で野たれ死んだ浮浪者の死も、その傍らを、目をそむけて、或いは全く気
      にもせずに通り過ぎていく人々の生も、健康保険も年金にも無加入で月給10万の振
      込みを見て空をあおぐ人生も、イスラエルのスナイパーに射殺されるパレスチナ人
      の人生も、自爆テロに巻き込まれて死んでいったイスラエル人の人生も、みんな「自
      意識」の問題でしかないといっているようなものだ。
      「自意識」の中にいるプチブルというのはためいきの特殊事情であって左翼一般の
      事情ではないよ。世界の中に出てこいよ。


 投稿者:d  投稿日:2002/10/01(火)20時10分32秒 

      いかにも俺は共産党はもちろん革マルも中核派もみんな右翼に見えるほどの
      極左だ。俺の掲示板、「えいえんなんてなかった」はマル共連(マルチメディア
      共産趣味者連合)の細胞だ。(マジ)わらぃ
      http://marukyo.cosm.co.jp/menu.html
      形而上的にはバリケードの革命的熱狂の中で一瞬垣間見られた永遠を、
      形而下では共苦の果てに餓死したシモーヌ・ベーユを。

      某Jが左翼で凡庸なプチブルかどうかは知らんが、ためいきの「アメリカもパレスチナも
      イスラエルも存在しない」という戯言に、正直な所俺は某Jとの近縁性を感じた。
      ポストモダンのオカマたち同様、外部外部と経典のように呪文を唱えていれば現代的だと
      思っている時代遅れの、イマジネーションの欠片も無いやからたちの言葉の域を某Jは
      一歩も出ようとしていないように見えるんだよ、俺には。
      俺が味わった失語を、えいえんなんてなかったを、ポストモダンの連中が本当に自身で
      味わったとはとても思えない。
      そもそもその手の屑の親玉である柄谷信者のためいきも同様だが、そんなものはとうの昔に
      フッサールによって現象学的還元されて語り尽くされているでしょう。

      笠井潔の「テロルの現象学」が吉本以降最大の原理論といわれるのには理由がある。
      20世紀最大の物語であった革命というものを自らの命を賭して現象学的還元し、無に触れた
      唯一の書物であったからだ。この偉大な実存論的行いを浜坂魚類のプチブル内面吐露と
      同列に語れるわけがないだろう。後半のユング妄想心理学もどきの戯言はご愛嬌だが、まあ、
      あれも文学者のイマジネーションって奴だ、わらぃ。

      >文学のイマジネーションとはイメージの思考という意味の業病を徹底的に禁欲し、排除し、
      >そこに亀裂を持ち込もうとする構え以外にない。

      そんなものは前時代的な出発点であり、カフカ以降本来的な文学徒ならみんな、味わってきて
      いるんだよ。
      自我崩壊を、強制的な現象学的還元を、無が触れてくるのを。某Jが以前引き合いに出していた
      大鋸の下らない小説もその出発点には立っているわけだが、ただ白痴のように口をあけて
      つっ立っているだけで、その先の何者かに届こうと試みるイマジネーションの冒険というものがない。
      ようするに才能が無いんだ。
      J・G・バラードの「終着の浜辺」が書かれたあとに、あんな下らないことを書くどんな意味がある。
      バラードがあの後どんなに百花繚乱たるイマジネーションの花を咲かせたか考えてみてくれ。

      >要するに放棄しなければイイという問題ではない。しかるべく時には放棄する
      >勇気も必要だという当然のことを言ってるだけかね。

      そんなことを言う前に、パレスチナ人でも、札幌駅や渋谷の名もなき浮浪者の死にでも
      共苦してみろ。そういった実存論的な共同存在たる姿勢も経ずに外部などといっている屑が
      日本のポストモダンだろ。
      勇気じゃない。怠惰な個人主義だ。


疎外論的日記 投稿者:d  投稿日:2002年10月02日(水)20時25分27秒

       強風で電柱が倒壊したのですぐに出てくれという電話で深夜にたたき起こされ、現場に直行すると、数本の
      電柱と街路樹が根こそぎなぎ倒されて道路をふさいでいた。警備棒に火を灯し、撤去作業が終わるまで通行
      止めをする。時々作業員の目を盗み、電柱を蹴る。一度蹴ると脅迫神経症じみた癖のようになって何度も何
      度も繰り返し蹴らずにはおれなくなり、作業員にあぶないぞ何やってんだと怒られた。仕方ないのでじっと
      我慢していると、交通誘導棒が神経症患者の激しく痙攣する顔面のように明滅し、先ほどまで電柱を蹴って
      いた足先がほのかに青く光り始めた。我慢しきれず監督の目を盗み、再び電柱を蹴ると俺の足先から巨大な
      青い火の玉が膨れ上がってスパークし、一瞬深夜の都市の一隅が青く闇の中に浮かび上がった。
       こんなことをしていると向こう側に行ってしまうなと思い至り、その後は朝までじっと立っていた。風の
      音を聞きながらじっと立っていると、いつものように激しい寂寥感に侵蝕され始める。そしてお決まりの子
      宮回帰願望だ。存在の全体性が無の顔をして立ち現われるわけだ。
       
       帰りに、都合のいいおみくじが出ることで有名な神社によって占ってもらうと、札幌駅地下街アピアの広
      場で郵便屋さんの物に似た帽子をかぶった19歳の女の子が待っているというのでアピアに行ってみる。郵便
      屋さんの帽子というのがどんなものだか知らないのだが、丸くて茶色で可愛い帽子だそうだ。しばらくアピ
      アに立ってみたが丸い帽子の女性は一向に現われず、どいつもこいつも四角い帽子をかぶっている。小一時
      間ほど待って諦めて帰ろうとしたときだ、パン屋の柱の陰からまさしくイメージどおりの帽子をかぶった少
      女がこちらの様子をこっそり伺っているのを見つけたのは。ユリイカ!彼女に違いない。僕に発見されたこ
      とに気付くと彼女はあわてて逃げ出した。迷路のような地下街を右に左にぐるぐる回り、メリーゴーランド
      のような彼女とのおっかけっこが延々と続く。いい加減くたびれ果てて嫌になったころには彼女の息も切れ
      て、捕まえた彼女の顔をみると、黄色い目でのっぺりとした顔の小人の宇宙人だった。彼女は俺の手の中でド
      ロドロに融けて消えてなくなり、もう自分がどこにいるのかわからなくなった僕は、途方にくれた火星人のよ
      うな僕は、とりあえず朝焼けのロンドを口笛で吹いて、カラフルなガシェットに満ちあふれた地下街を、海
      の匂いのかすかな幻臭をたよりに左に曲がった。


>d  投稿者:改め某J  投稿日:2002/10/02(水)11時36分53秒 

      つーか、外部外部と経典のように呪文を唱えている奴らと存在の虚焦点に届こうとする
      試みって全く言っていることが同じでしょ。おそらくは俺の文章を通読だにせずそっちの
      掲示板に投稿された大先生の文から触発された戦前左翼絡みの古典的イメージを自閉的に
      膨らませ真っ正面から相手の襟首掴もうとする大先生のような殊勝さも持てずにまるで
      満員電車で女の衣服に後ろから精液ひっかけて悦に入るが如くの陰湿極まる仕草で自身の
      手を決して汚さない安全な禅問答的な高みから相応に糞真面目なやり取りしている場に
      物知り顔の冷や水かけてはただ単に自身の実存病を殊更周囲に向かって憂う身振りを示
      したいだけの典型的カマッテ君、柄谷信者と呼ぶには柄谷をマトモに読んだこともない
      としか思えない芥川よろしくな自意識肥大症の魯鈍なシニシズム的感性、新宿西口ポエ
      ムマニアと呼ぶに相応しいオザキ病的な気分、言葉の他者性への恐怖から言うべきこと
      を可能な限り相手に語り尽くそうとする努力を全く放棄した黙説法への過剰依存によって
      自身の自己イメージを相手に強制的に担保させようとする露悪的な薄汚さ、こういった
      ものは大先生曰くクズの親玉らしい柄谷が言うように憫笑とともに放置してればイイだ
      けだ。俺は「典型的」なプチブルの左翼だが、別にそんなことはどうでもいい。そういっ
      た生の所与条件に特権的に焦点を絞り、それをもう一つの生の所与たる自意識という
      腫瘍に絡めて過剰に恥じる身振りが戦前左翼の自己否定の流行であり、戦後の新左翼に
      まで継承されたそのモードたるや全く古色蒼然たる古き良き時代と言うだけで充分だ。
      未だにそんなモードを殊更引き合いにだして、したり顔になれる馬鹿と俺を近似してい
      るというのは、大先生も俺の文章をほとんど読まずに眺めるだけで四の五の言おうと
      してるとしか思えなくなって話を続ける気が一挙に失せるんだが、まあそれでも最低限
      の礼儀として話を進めれば、前文で指摘した通り大先生の言ってることは端的に矛盾し
      てるね。

      その矛盾の一番軽いものを話の取っ掛かりとして指摘してみれば、そもそもフッサール
      の還元でやり尽くされたと大先生が言う事をどうして再び文学でやらなければならない
      のか。文学を特権化してそこに秩序転覆的な過剰な夢を託す通俗文学主義に俺はウンザリ
      してるんだが、別にフッサールが直面した外部の謎、ハイデッガーなら存在の無とでも
      いうだろう外部に向かった想像力の業こそが文学に必要だと言うのは納得できても、
      簡単に言えばその外部とは生の彼岸であり、その彼岸は此岸の言葉やイメージでいくら
      積み重ねたところで何ら掴み得ず常に逃れ去っていくだけだ。ネックなのはこの点で
      あり、いくら自我崩壊を世間一般が共有する自我崩壊という表象=イメージで語った
      ところで、全くその感触すらも示し得ない。大先生が好んで用いるキチガイじみた
      タームは共同体的コードの内部に依拠した外部の仮象であり、その仮象は内部との
      癒着関係の中で初めて享受される重みを持ってくるだけである。無意識を語った
      段階で全て意識の位相に収斂するように、無を語った瞬間には全ては有の地平に
      還元されるだけだ。触れてくる無は近代文学的または世間一般に共有され是認された
      語り口の中では決して提示できない。何故ならその語り口はあまりにも此岸で生産
      され流通され享受されるイメージのみで彼岸を語ろうとするからだ。

      語り得ぬものを此岸の言葉で語ろうとする傲慢、物語を類似性の隠喩連関で覆い尽く
      そうとするイメージの思考と俺が言うのは、この限りであり、こういった矛盾を
      踏まえずに、というかまあ大先生は踏まえているとは思いたいが、此岸の表象で彼岸を
      脳天気に語れるし語るべきだと思いこまれても困るわけだ。大先生に馴染み深い
      ハイデッガーを引き出せば、ハイデッガーは表象批判を一貫して展開してきたわけ
      だが、その表象とはイメージや隠喩のことだとわざわざ蒸し返すこともないでしょ。
      まあハイデッガーは隠喩批判自体を隠喩で行っているし自意識のモードからすれば
      行わざるをえないんだが、この陥穽を乗り越えるにはどうするかと言った時に文学
      の地平では描写の筆法が生まれてくる。叙述は対象をコード化された明瞭な表象と
      して示すわけだが、叙述の自然な流れをせき止める描写の累進過程が対象の一般
      イメージを提示しようとして隣接性や細密性を期そうとすれば期すほど、描写の
      動きは提示されるべき対象の明確な輪郭に不意の澱みを課しては内側から食い破っ
      ていくという逆説が生じる。有を提示しようとする試みがかえってその徹底化に
      より無を噴出させてしまうという逆説の瞬間を安易なイメージでではなく、その
      描写の生動の中に感触として示す運動こそが外部接近のための一つの方図であり、
      俺が文学にとって描写が必要だと言うのもこの限りにおいてしかない。まさか
      私小説的な身辺雑記めいた描写が文学の中核にあると俺が思い込んでいるとか
      思われても困るんだが、無が「触」れてくるというように、無は感「触」としてのみ
      筆法の運動の中で浮かび上がらせることが出来るに過ぎない。これを一つの構図
      として全面的に展開できると考えることが、語り得ぬ外部を語りの内部で実現させ
      ようとするのが楽天的な傲慢だと言うのだ。想像力がああだらとか言われても、
      その想像力だって言葉の動きの中に事後的に生じるだけであり、そこで感受された
      衝撃は大先生が自明視するコードの範疇に引き寄せられて読まれただけに過ぎない。
      コードへの過剰依存がその徹底化の果てにコード自体の根拠の不在を浮かび上がら
      せることが出来るかぎりで、描写は文学の中枢にあると言っている。

      これと同じ事態が浮浪者の死に共苦しろという言葉にもある。そもそもフッサール
      にとって他我が自己の感情移入により捏造された像に過ぎないように、自分が相手
      と同じ地平で苦しんだり泣いたりできるとする発想自体が相手に対する無礼であり
      傲慢だ。人間が自分の横面しか見せることが出来ないように、その横面を感情転移
      で自身の全体像にすり寄せ拡大し混同すること以上に怠慢な個人主義はない。とても
      世界=自己=生の等式を外部=他者=死の等式に対置させながら展開したハイデッガ
      ーを読んでいる人間とは思えない発言だ。共同存在と言ったところで、その共同性は
      コードの自明性に寄りかかった感情転移の集積に過ぎず、その他者は自己が都合良く
      造りだした鏡像に過ぎないとレヴィナスに批判されたのがハイデッガーだ。挙げ句の
      果てには共同性を担保する根拠に抹消線を引かざるをえなかったハイデッガーだ。
      本当に苦しんでいる人間と通行人的に同情する人間とは決して同じ地平に立てないし、
      立とうと思うことが不遜だ。少なくとも俺は他人に自身の内情を大変だねえとか
      言われることは吐き気がするほど不快になるし、酒飲み仲間である上野のホームレスの
      知人の一人には実際そう言われた。その初老のホームレスは昨年の冬に凍死したけど。
      共同存在と他者は同じではないし、むしろ対立するものだ。他者とは共同存在という
      自身の感情移入の磁場からは掴みきれない外部だ。そういったことを実存論とか言って
      不問に付して自身の感慨の広がりのみで他者や世界を代行しようとする欲求の狂奔が
      日本のモダンの屑というか、大正教養世代の白樺派だろ。そんなものは勇気じゃない。
      もっとも悪質な代行欲求であり、権力意志であり、ナルシシズムだ。


>   投稿者:改め某J  投稿日:2002/10/02(水)12時34分31秒 

      > >文学のイマジネーションとはイメージの思考という意味の業病を徹底的に禁欲し、
      > >排除し、そこに亀裂を持ち込もうとする構え以外にない。

      まあ大先生への返答の中で既に書いたので同じことの繰り返しになるので簡単に
      言えば、丹生谷が言うのも表象=代行=再現=イメージ=隠喩的思考に関する
      批判であり、もっと言えば叙述形式と物語内容を混同する悪法への愚痴って感じでしょ。
      村上春樹を絶賛した時にはそこまで賞揚するなよと唖然とさせられたが川端論の角度は
      なかなか面白かった丹生谷が好きなドゥルーズ=ガタリをもじれば、カフカ的な吃音と
      でも言える事態だ。バタイユはイメージの亀裂を覗く強度を統一性を失い断片化された
      イメージの羅列である種の構造的隠喩みたいに提示するぶんだけ少しはマシだが、俺が
      言うのはイメージの亀裂をイメージで示そうとする安易さへの禁欲であり、その禁欲が
      導く様々な手法だから。文学には想像力は要らないというのは確かだね。というか、
      想像力も作品を織りなす言葉の組成から読みの契機を介して浮かび上がってくるもので
      あり、先験的にあるものではないと今さら言うのも馬鹿馬鹿しい。まるで50年前に引き
      戻された感じだ。まさに時間が止まった無時間性の永遠だ。または外部と隔絶した自己
      規定のナルシシズムが狂奔する想像界と言った感じか。

      ついでに大先生絡みで一言かこつけてもらわせると、大先生読んでますか、是非下記の
      それを読んでくださいね。大先生が吉本や笠井が好きなのは両者とも疎外論を引っ張っ
      てるからなんだよね。永遠のア・プリオリな喪失が故の疎外論の不可能性という構図を
      未練たらたら引っ張っていたのが一時期までの笠井であり、バタイユ風に言えば自己を
      胎児が如く優しく包み込んでくれる母胎に微睡む始源の連続性からの疎外=去勢を
      個々人の有機的な生の自己表現として定式化して未だにそれをやってるのが吉本だから、
      「えいえんなんてなかった」という大先生が酷愛する言葉が響かせる疎外論的な響きと
      両者は共有するところが多々ある。永遠という楽園はそこから疎外されて初めて措定
      される自己の空虚性を隠蔽するための蝶番であると言ったのは木村敏だが、自身の
      根源的な空虚さを真摯に引き受けないために未来や外部に向かって投射されそこに
      向かって邁進することが自己の足下を直視させられることを防いでくれた理想の
      見取り図が大きな物語=疎外論の失効として破綻した時期に前世代を批判して登場
      したのが日本のポモであれば、何故かポモ的な雰囲気を毛嫌いしたはずの柄谷を
      ポモの大玉として罵倒する大先生の気分もまあ分かる。笠井や吉本という疎外論
      の心性を引きずってる輩の現実対応の真摯な姿勢を大先生が度外視しているのも
      まあどうでもいいとして、ここでの文脈に絡めて図式的に言うと、えいえんなんて
      なかったという気分を真摯に引き受けるまでもなく、普通に生きているのがポスト
      モダンな連中なわけで、そっちの方がよっぽど深刻だ。わざわざ自己疎外の転倒物
      に過ぎない実存の不安や孤独なんてものを大仰に言い立てることが恥ずかしいと
      思うほど、そこにドップリ浸りきっているのがポモな奴らなわけだ。で、俺は疎外論が
      嫌いだし、ポモも嫌いだ。理由は多々あるが、既に大先生絡みの文章で前者の一斑は
      書いたので簡単にもう一度言うと他者性が欠けたまま無自覚に進行し増悪しつづける
      自虐的ナルシシズムというところか。

      もう一度ひっくり返って、まあ俺も文学とは何かという問いに答えが出せるほど
      何も考えてない。ただ描写のエクリチュールは無へ近接する手法の一つであり、
      イメージ批判に有効であり、これが踏まえられれば芸術の存在論化も夢ではないと
      言っているだけだから。そもそも文学とは何かっていう問いの立て方自体が
      判然しない概念のあるのかないのか分からないような本質や内実を堂々巡りで
      問うことしか残されていないとヘーゲルが言うようなお役御免の芸術の末路と
      いった感じでウンザリする。柄谷の予言もまま当たるが、ヘーゲルの予言は
      もっと的中率が高いという事態にゲッソリしたところから物を考えようとする
      出発点にも立てない輩が多すぎだと思うね。これは自戒だから変に取らないでね。


>   投稿者:改め某J  投稿日:2002/10/03(木)00時08分03秒 

      > アドルノ風味を帯びているな

      アドルノは理性が孕む同一化の暴力が異質な他者を殺す殺すとだけ九官鳥のように
      一時期囀りすぎた喉の痛みのせいかマインハイムみたいに思想即イデオロギーと
      いう思考停止な相対主義のデットロックにぶつかって何も言えなくなった代償を
      異質なものを異質なまま対立的に併存させられる芸術こそが純粋だとか唱え始める
      ことで補填しようとするところに退屈な感銘を受けたことぐらいしか覚えてないが、
      まあ俺が言うのは理性が同一化の暴力に貫かれてるなら、その衝動が空回りする
      ぐらい理性を酷使する徹底性に淫するという抜け道の一つがあるんじゃないのという、
      アドルノ風味と言うよりはむしろバタイユの非知風味のことを言ってるわけだ。
      愚直な論理の前進による自己の失調、他者との融解、そして外部性を孕んだ地平
      での自己賦活と言う三段論法にまで風呂敷を拡げる気はないとしても、無や外部
      への一つの接近法としては未だに有用だ。

      ところで、またまた一言かこつけさせてもらうと、ここまでの大先生とのやり取り
      のなかでありがちな馬鹿に非生産的で面白味のない半畳をしたり顔で入れられない
      ように一つ補助線を引いておくと、表象絡みの諸系列を批判的に俺が指摘してきた
      からと言って、俺の文章の進み方自体がお前の批判する類そのものじゃねえかとか
      言われてもしょうがない。その不備は素直に認めるが、ハイデッガーが表象批判を
      表象越しにしなければならなかったように、対物への姿勢を類似性を基点にした
      隠喩的な意味の介在によって宿命付けられている自意識のモードからしてこの手の
      背理は内的事態及び外的事態の混沌を整序し他者に伝達し意見の相応の理解を
      お互いに求め合う場では逃れられないものだ。他者が生の努力によっては常に
      向こう側へと逃れていく外部だってお前は言ったじゃねえかと言われても、だからと
      いって自意識の世界には他者がいないなんぞと古き良き独我論の戯れ言を宣った
      つもりも一切ない。ただ意識の能動的な働きかけからは常にその痕跡としてのみ
      感知できるような、こちらの実存的な企投などとは無関係に不断に変化していく
      内実定かならぬ了解不能な不透明な存在であり、意識の臨界点の向こうにいるのが
      他者だと言っているだけだ。ここら辺などは既に戦後実存主義の親玉たるサルトル的
      ですらあり実存病の人には馴染み深いテーマだと思うんだが、当然、この定義すらも
      他者に透明な内面化過程の中で暴力を振るっているじゃねえかとアドルノ風に言うこ
      とだって出来るが、これはほとんど定義とは言えない代物であり、むしろ意識の無力
      を示す証言以上のものではない。この点を踏まえ違えると、全てを自意識の妄執が造
      りだした物象的な錯覚であると断定して無常観にシニカルに浸りたがるような、
      まさに時代の気分をそのまま反映しただけの凡庸さの代名詞たる馬鹿が繁殖することに
      なる。これがオザキ病の典型徴候だ。まあ時代の気分を直接反映することはヘーゲル的
      に言えば素晴らしいサンプルということになり、時代を一身に背負った前衛の心持ちに
      陽気な陰鬱さすら楽しめることにもなるんだろうが、とてもじゃないが俗悪だ。まあ
      俗悪さが好きなだけなら別に害もないし勝手にやってろと言うぐらいだが、実害を
      受ければ不快になる。

      文学について言ったこと絡みで付言すると、俺が言っていることは極めて簡単な
      ことであり、日々誰でもが恐らく体験している事実を指摘しているに過ぎない。
      要するに例えばミカンという言葉がその字面や音韻とは全く実質的な関係のない
      対象のイメージを習慣的な無根拠さで指示するように、本来的に錯誤の体系たる
      言葉を用いて為される文学という言語芸術はそもそもが詐術と錯誤の戯れ以外の
      何ものでもないという、言ってしまえば当たり前なことだ。どれほど自己体験の
      重みに実存的に彩られた生々しい言葉だろうと、その言葉が他人を前にして発さ
      れた段階で、鮮度の切れた不味い魚と変わらない流通品に成り下がる。それが
      言葉の怖さであり、他者の怖さだ。まあ当然、日常生活の場ではこの戯れに
      一対一のリアリズム的な規制がかかるわけで、それが日々の意思伝達や人間関係を
      円滑に循環させもするし、俺もそのリアリズムの本質的に危うく怪しい恩恵に
      与ってこう書いているわけだが、だからといって普通の会話のなかで相手が指示
      する対象イメージが規制コードが緩んだせいで判然としなくなるという無の触感な
      事態は日常的に普通に体験されることだ。それなら文学という場でこの最低限の
      規制を取っ払って、無だろうが存在だろうが示そうとしたところで何の罰も当た
      らない。ただネックなのは何度も言うように、「何を書くか」ではなく、「どう書くか」
      ということであり、この混同は単なる勇み足に終わるに過ぎない。その書かれるべき
      内容ではなく書かれる方法に関する限りで、描写の業は極めて文学的にというか、
      小説的に正しいわけだ。この種の正しさを一応は踏まえておかないと、ロクなものが
      作れない。そもそも何故文学、または小説だけ手法がこうも侮蔑されるのかが分から
      ない。普通、一度も油絵を描いたことがないのに油絵コンクールに自身の作品を出品
      しようとする馬鹿げた考えを起こす奴はいないのに、文学だけはこの種の常識が通用
      しないし、むしろ軽蔑されかねない。これは驚くべき事態だ。

      こう書いたからって俺が文学は表現の真摯さではなく、技巧が全てだなんぞと
      いうつまらない文学エリーティズムの身振りを示していると勘違いするおめでたい
      奴はいないと思いたいが、敢えて誤解の余地を埋めようとすれば文学は自己表現で
      あり、その真摯さこそが文学性の価値基準だと妄想する馬鹿と文学には技術こそが
      不可欠だとする馬鹿は、言説が言表の透明な表象媒体だと考えがちな近代文学的な
      パラダイムにおける同じコインの裏表であり、単なる近親憎悪に過ぎない。言表、
      つまり語られる内容が言説、つまり言語表現の秩序のどこら辺に位置され、その
      位置を取り囲む意味連関とのどういったパラグマティックな相互影響を生きること
      になるのかといった問題系に視線を結べない文学または小説作品はキャンパスの前
      にただただぼんやり立っているだけで、実際に絵筆を握ったこともない自称油絵
      画家と大差がない。

      延々と書いてきた割にはいきなり何だが、俺は基本的に文学に興味はない。
      というか、ブンガクに興味はない。大先生には出来れば有象無象のブンガクでは
      なく本当の意味で文学的なものを書いて欲しいと図々しくも身勝手で一方的な想
      いがあるからこそ、延々とここまでクダを巻いてきたんだが、まあ大先生には
      自分なりの文学イマジネーション論があるんだからまずそれを徹底化させれば
      イイと思いますよ。でも少しぐらいは俺の言ったことも踏まえてくれれば俺に
      とっては幸甚の至りといったところか。


今日の実存  投稿者:改め某J  投稿日:2002/10/03(木)05時09分46秒 

      起きついでに実存という名の自己疎外の無根拠さに打ち震えた言葉の一例を
      俺もたまには生きてみるか。

      と言っても、現在時の生の自己措定はすべからく始源なる自然の連続性から
      疎外された分析されるべき自己表現の重みを等価に持っていると吉本的前提を
      踏まえつつ、更には等価に切実であればこそ等価にくだらないものであるという
      追加条文を重ねた上でさてはて俺の実存の言葉を連ねてみると、ところであずまんが
      大王アニメ版がようやっと終わったな。まあアニメ版は漫画版のオマケみたいなもん
      だったので別にどうでもいいが、それでもアニメ版にも少しぐらいはいいところが
      あったわけでその一例は何かと言われれば主題歌とオープニングの異様なはまり具合だ。
      俺もコミケに行くほどアニオタ臭い妹が何故だかビデオに録画していたアニメ版を偶然
      目にしたのをきっかけに漫画版に触手を伸ばしたご多分に漏れない類なんだが、アニメ版は
      漫画のモードに馴れれば馴れるほどかったるく思ってみても、オープニングはつねに
      なかなかだ。

      次。大先生とやり取りした余韻からさっき東と笠井の往復書簡の交渉決裂の時分の
      それを適当に眺め直したら、俺が以前にそれ絡みで書いた内容の一部は東のスタンスと
      全く違ってた。まあ、全くと言うほどでもなく、世界や現実の接点を模索すべく実存の
      独り問答に終始する笠井に向かって批評の言葉は現実に積極的に関わってそれに
      願わくば一片の指針でも示そうとする態度が必要だってことから、最近の
      記述家=認識家たる浅田に自身が進むべき方図の一つとして関与者の追加事項を
      付けて共感を示してるわけで、別に自身の硬直した思想云々で現実を軽く裁断する
      だけでその生々しい変動やそこに潜んだ微細な徴候などを見ようとせずに自身の
      我意のみで四の五のを言おうとする怠慢と東が指弾する柄谷への批判を示している
      かぎりで、まあ外から自身を鷲掴みにして問答無用で引きずり回す現実の具体に、
      それを無視してとかく狂奔しがちな自意識をさらけ出すことが必要だって言ってる
      点では自意識を傷だらけにしようとしてるって言う俺の物言いもそれほど的外れでも
      ないがというかまあ的など外れても構わないが。というか、あまりに粗雑だと言えば
      それまでで、東もそれは断っているが、だけど自意識の子宮を現実にさらけ出して
      少しは痛い思いをしろと言うのは分かるが、どうしてそういった姿勢に必要以上に
      拘るのかってのを些細な提言に過剰な政治性を読み取られて頭に来たんだろう笠井に
      訊かれてるわけで、そこに今後どう答えるのかが俺にとって面白い見所であることに
      あんまり変わりはないな。まあいいや。

      ネタが尽きた。宙返りでもするか。はい宙返り。終わり。


イマジネーション  投稿者:d  投稿日:2002/10/03(木)19時20分12秒 

      >文学は自己表現であり、その真摯さこそが文学性の価値基準だと妄想する馬鹿と文
      >学には技術こそが不可欠だとする馬鹿は、言説が言表の透明な表象媒体だと考えが
      >ちな近代文学的なパラダイムにおける同じコインの裏表であり、単なる近親憎悪に
      >過ぎない。言表、つまり語られる内容が言説、つまり言語表現の秩序のどこら辺に
      >位置され、その位置を取り囲む意味連関とのどういったパラグマティックな相互影
      >響を生きることになるのかといった問題系に視線を結べない文学または小説作品は
      >キャンパスの前にただただぼんやり立っているだけで、実際に絵筆を握ったことも
      >ない自称油絵画家と大差がない。

      自らの実存の様態を粘着に語る私小説、或いは大鋸の小説のように(中学生の上手な
      作文のように)旧態然たる世界に届くための言葉のデッサン力を磨く。無論どちらも
      必要なことだ。古典的で陳腐な文学ならそれだけで充分だったかもしれない。だが
      シュルレアリスムとバラードのNWSF宣言を経た現代においては、即ちリアルと
      いうものが変容した現代においては、そのような古典的な手法では世界に届き得ないし、
      世界を開くことはできない。棒Jは日常を緻密に描き、その日常の中に一瞬現われた
      亀裂を示す大鋸の手法をしきりに称揚しているが、その日常そのものが変容しているの
      だから、日常を語る言葉も変容しなければならないということが何故わからないのか
      (注、ここのところ重要)。
      そのために必要なものが、俺が常々口を酸っぱくして言っているイマジネーションの
      飛躍というものであり、J・G・バラードが「文学の可能性はもはやSF(スペキュラ
      ティブ・フィクション)にしかない」と言っていることの意味だ。言葉は単なる日常
      世界(もうそんなものは無いんだ!)の描写に留まることはできず、一言一句、全ての
      イメージが、全ての意味連関が、読み手をも書き手をも異世界へと開く飛躍に満ちた
      詩の言葉でなくてはならない。異常なポエジーの穿つ穿孔、異常なポエジーが世界を
      開き照らす鮮光。これが真のセンス・オブ・ワンダーであり、現代における文学の
      可能性だ。現代という総合失調した世界を現す為には、作家は、イマジネーションの
      跳躍を持ってして、総合失調した言葉を獲得せねばならないのだ。そのような行いの
      最高傑作、20世紀最大の文学がバラードの「残虐行為展覧会」であった。

      >大先生には出来れば有象無象のブンガクではなく本当の意味で文学的なものを書
      >いて欲しいと図々しくも身勝手で一方的な想いがあるからこそ、延々とここまで
      >クダを巻いてきたんだが

      おまえ誰にものを言っているんだ(゚Д゚)コルア!俺の「光の王」を読んでみろ。大鋸の
      小説なんて俺には中学生の作文に見える。イマジネーション無き者は去れ、と。


>d  投稿者:改め某J  投稿日:2002/10/04(金)08時12分36秒 

      > 自らの実存の様態を粘着に語る私小説、或いは大鋸の小説のように(中学生の
      > 上手な作文のように)旧態然たる世界に届くための言葉のデッサン力を磨く。
      > 無論どちらも必要なことだ。

      だーかーらー、俺が書いてきたことをちゃんと読んで理解し咀嚼した上でレスを
      返そうとしてる?真っ正面から襟首掴むその姿勢は結構だが、いい加減一連の前文
      からのやり取りが全く蓄積されないまま無為に堂々巡りが繰り返され続けるような
      まさにぽすともだーんとしか言いようがないお遊戯にいつまでも付き合うことには
      ウンザリさせられるんだが、俺が述べたいことは既に書き尽くしてしまったので
      これ以上は特に言うこともない。その指標のつもりで最後の愛敬も示したんだが、
      まあ一応の礼儀として少々の指摘を連ねてみよう。

      まず第一に俺は叙述形式と虚構内容を混同する視線からは自称固有の無根拠な自信
      が奔出するだけのロクなものしか生まれないと可能な限り分かり易く念を再三押し
      ているのに、大先生はまだ両相を混同したまま論を進めている。どれほど全世界を
      凍結させかねない壮大な物語の奇想が涌こうが書き方一つで全てはどちらにも転び
      うるという言葉の危うさに視線を結べなければ出発点にも立てていないという至極
      当然な常識事を何故に殊更無視してまで語られ書かれる内容にのみ重点を絞って
      四の五のを云々したがるのか全く理解に苦しむ。例えるなら俺は単に九九という
      概念だけでは計算は出来ませんよ、ちゃんと掛け算の一応の理路に通じることが
      まず必要なんですからと言っているだけなのに、何故ここまで誤解されるのかに
      驚かざるをえないというのが率直な心情だ。こういった誤読を反復することが
      大先生の難癖の姿勢なら相当に悪質だと考えざるをえないね。

      第二に、どうして俺が描写の位相を素朴に信頼される日常世界を経巡る手法の一つ
      として考えていることになるのかも理解できない。俺の言を全く正反対に解釈して
      話のとば口にされても困るだけだ。そもそも大先生は描写という言葉を何故か極めて
      狭い範囲内で解釈する悪癖があるが、残念ながら俺は描写抜きの小説などにはとんと
      お目にかかったことがない。「女が歩く」、こう書いただけで既にリアリズム的に規制
      された二対のイメージが言葉の「描写」力を通して示されている。例え大先生が言う
      ように描写ではなく想像力こそが重要だとしても、想像された地平に関する対象設定
      を示すには言葉の喚起力に頼った描写の契機が不可欠なのは当たり前だろ。このような
      当たり前な前提を踏まえた上で俺は想世界をめぐった描写の徹底性の有効範囲を論じて
      いるのに、言葉のデッサン力が必要なのは分かる云々とか言われても、俺には大先生の
      文学的感性の守備領域が明治時代の自然主義的風潮から一歩も進んでないという古め
      かしさ以外に伝わるものは一切ない。言説が言表の透明な表象媒体であると前提する
      パラダイムの弊害を記した部分を引用箇所として残しているのに、その含意が全く
      大先生の一文に繰り込まれていないどころか、まさにその重力圏内を一歩も出ずに
      論を進めていることに少し驚いてしまったぐらいだ。バラードを顕揚するのもイイが、
      その前に戦後日本に軽薄に大流通した海外SF作品以前に叙述と内容の相互運動を
      通して独自のSF的世界を花開かせた鏡花や百聞の作品に大先生は接してみた方が
      いいよ。まあ百聞はそれほどでもないが。第一、俺に言わせれば物語の世界類型は
      探偵小説モデルか、SF小説モデルかの二者択一しかない。というか、八十年代以降の
      ミステリー小説、ホラー小説、SF幻想小説ばかりが幅を利かす状況下で今さら文学の
      可能性はSFにしかないと大先生に改まって言われても、昨今のオザキ病患者の大量
      発生と同じような退屈さしかない。要するに単なる時代の気分だ。言うまでもない
      だろうが、この気分とはハイデッガー的な意味での存在論的なものだ。つまり、人を
      深く酔わせる酒、踊れば踊るほど頬も上気する。

      第三に、大先生は現実や世界のありようそれ自体が変化し、だからこそ文学の言葉
      も変わるべきた云々と語るが、言うまでもないとは思いたいが、変化したのはそれら
      を解釈するこちら側の感受性の形式に過ぎない。世界が変わったのではなく、人間の
      意識の地平が一部の人間のなかで変化したらしいと一部の人間によって報告されたに
      過ぎない。この指摘は、前にも書いたが、現実と現実性は存在論的真理と存在的真理
      ぐらい違うということの変奏だ。というか、むしろ現実が構想力の解読格子を通して
      事後的に意識によって再構成されるような、常に意識の臨界点の向こうにあるのか
      ないのか判然しないモノそのものだというのはカント以降の常識じゃないのか。
      まさか現実が整序され分析され描写出来るものとして確固として実在するなんて
      いう素朴実在論的な発想を現象学に詳しい大先生が持っているとは思えないが、
      そもそも酷愛の言葉で言えばこういった存在論的差異への感受性をすっぽり抜け
      落としたまま、大鋸作品が退屈な日常描写の集積品であり、真に必要なのは
      想像力のみだなんて言う理屈の立て方は、正に文学を日常的題材に取材する一派と
      想像力の業に取材する一派とに区分けし、挙げ句には前者に大衆文学、後者に
      純文学の位階を授けかねない近代文学的な前提にいつまでも愛着を持ち続けられる
      古風な文人気質の端的な表れに過ぎない。まあこれ自体は大先生の守備範囲から
      分からないでもないが、いやしくもバラードに追いつかんと然るべき現代文学を
      志向しようとする者の言葉としてはさすがにちょっと致命的だとは思うね。
      こう言ったからといって、俺が大鋸作品を手放しで賞賛してるなんて思うことは
      ないでしょうね。そういえばこの注意書きも前に書いたな。

      まあ少々と言いながらつらつらと書いてきたが、大先生に賛同できる部分も一点ある。
      大鋸の作品を中学生の作文と言っているが、まさに俺にとって小説は全て作文だ。
      というか文を作るという意味での作文であり、何ら貶価的な意味はないし、全てを
      同一地平で眺められる点で極めて紙の上での平等主義だ。でも作文ですら提出先の
      人間の添削によって巧拙を評され弾かれることも多々ある。その弾かれるものが
      ブンガクだ。俺にとって大鋸はまあ中学生とまで言わないが、上限を大学四年生に
      設定すれば、高校三年生程度だろうかね。


 投稿者:d  投稿日:2002/10/05(土)22時25分43秒 

      >第一、俺に言わせれば物語の世界類型は
      >探偵小説モデルか、SF小説モデルかの二者択一しかない。

      いかにもそのとおりだと思う。空白の誰か(CDJ64だろ、わらぃ。@抹家町の連中は
      哲学部勢ぞろいなのだからどうどうとハンドルを入れて書き込むべき)がここで称揚
      していた村上龍はSFだし、春樹の方は探偵小説謙SFだし、古典的な純文学スタイル
      ではもう世界を現せないんだと思う。村上龍は優れたイマジネーションを持っており、
      俺の理想の文学に届きうる力を持っていると思う。アンチロマンで死に絶えた「物語」
      というものの本来的な力の復権に貢献しうる作品群を生み出しているところも凄い。
      春樹の方は某J言うところの「疎外論的」文学だが、疎外論、言い換えれば存在論は
      本来的な文学の根底には必要なものだと思っている俺にとっては好きな作家だ。
      70年代に書かれた革命の後の空虚3部作なんか、俺の世代にとっては涙ものだし、その
      空虚を超えて、疎外論を超えて、世界に至ろうとした「ネジ巻鳥クロニクル」は20世紀
      日本文学を記念する一冊だと思う。
      大鋸のような純文学でお薦めなのは増田みず子だ。幸せになったのか、病気が治ったのか
      知らんが最近のものは普通なので読んでいないが、「シングルセル」「禁止空間」
      「自由空間」などのころの彼女は凄かった。外部とか亀裂とか言うものが、最初から
      最後まで世界を埋め尽くしているんだよ。それも既知外じみた文章じゃなくて普通の
      文章でさ。普通の文体で強烈に既知外じみた現代の実存を現しているところが凄いと
      思う。彼女にはNWSFの称号を与えてもいいと思う。SFとはもちろんサイエンス・
      フィクションのことではなくてスペキュラティブ・フィクション、スキゾイド・フィク
      ションのことだよ。バラードの他にはバロウズとかトマス・ピンチョとか。

      >大先生は現実や世界のありようそれ自体が変化し、だからこそ文学の言葉
      >も変わるべきた云々と語るが、言うまでもないとは思いたいが、変化したのはそれら
      >を解釈するこちら側の感受性の形式に過ぎない。世界が変わったのではなく、人間の
      >意識の地平が一部の人間のなかで変化したらしいと一部の人間によって報告されたに
      >過ぎない。

      こんなことは言わなくてもわかっているだろうが、世界とは人間の意識のありよう(現存
      在の様態)にとってのものでしかありえないわけで、現存在とは、そして現存在のみが、
      存在の発露する場所であるわけで、個人的な感受性の背後に真のリアルな世界があるなんて
      ことはありえないわけだ。そんなわけで、人間の意識の在りようが変わったということは
      世界が変容したということと同義であるわけだ。
      かつてJ・G・バラードは「内宇宙への道はどこか」で「幻想の故郷での意識は世界を
      映す鏡であったが、現代においては世界とは意識(内宇宙)を映す鏡である」という趣旨の
      言葉を吐いていたが、全く持ってそのとうりだと思う。故郷はえいえんに失われたのだ。
      そこから無限のイマジネーションを花開かせるか、いつまでもアンチロマン風の「亀裂」
      小説を書き続けるかどうかは、まあ人の勝手ではあるが、アンチロマンはもう書き尽くされて
      誰が何を書いても個人的な実存上の万人に繰り返される個人史の過程といった程度の意味
      しかないと思うよ。大鋸などにはその辺のことに気付いて物語とイマジネーションの力に
      届いてもらいたいと思う。いまさらバタイユやブランショの真似事しても仕方ないでしょ。
      つまんないんだよあんなもの。歴史的な意味しかないと思うよ、あのてのものは。


>d  投稿者:改め某J  投稿日:2002/10/06(日)18時48分46秒 

      つーかさ、話が相応には生産的に深化するかと思えば何の進展もないという事態は
      俺が形式−方法論に的を絞る一方で大先生が内容−原理論に重心を置こうとするところから
      生じる齟齬の表れでさすがに馴れてきたがいい加減どうかとも思うよ。まあイメージの
      亀裂云々と判然さを期するために単純化してきた俺も悪いし大先生にとって馴染み深い
      はずのハイデッガーを両者の基礎として殊更言い立てずに前提してきたのも悪かったん
      だろうが、ここで言う亀裂とは誤解なきよう大先生の文脈に絡めれば想像された地平を
      単に説明し提示するだけの隠喩的な貧しさを内破させる多分に換喩的な強度が具現する
      契機であり、終わらせるためだけに始まさせられる物語の単調さを逸脱する想像力の業を
      指している。そもそも物語とはヘーゲルを出すまでもなく西鶴の浮世草子のような欲望の
      定型性以外のものではない。物語の自己実現に奉仕しそれを完了させ書く者の自意識を
      満足させるためだけに用意された言葉たちの貧しく男根的でパラノイアックな慌ただしさには
      射精したいだけの男達が集う歓楽街の下卑た臭いしか感じとれずに全くウンザリさせられる。

      作家の自意識は混沌たる無を有なるものに向けて整序し方向付け意味づけ物語化し
      自身の欲望に適った箱庭世界を構成していく神にも似た創者としての感慨を享受したくて
      しょうがないルサンチマンっぽい陰湿な醜さのみが漲っていると言ったのはバルトだが、
      その高揚の醜さが自身の否みがたい定型性を見誤らせ無根拠な矜持に書き手を浸らせ
      ブンガクの再生産に加担させていくまでにはもうあと半歩だ。ルカーチなら先験的な
      故郷喪失の定型と言うであろう失われた楽園を擬似的に地上に再建しようとする物語
      の鉄道線路から逸脱するスキゾフレアニックな想像力の飛躍は書く者の自意識ではなく、
      書くことの自意識に陣取らなければ既にお話にならないというここ数十年間の文学史的
      趨勢をいやしくも踏まえて俺は論を立てているのに、何故か反小説と想像力をサルトル
      寄りに対立させたと思えば、いきなり手のひら返して反小説を実存の個人史なんぞに
      結びつけたりして四の五の言われても全く反応に困ってしまうだけだ。実存の個人史
      云々を批判して登場してきたはずの反小説に関する大先生の視線は最も通俗的に
      解釈され流布されたベケットやブランショ寄りの感じがするが、まあそれは大先生の
      守備範囲からもしょうがないとしても、その一派の顔だった一時期のロブ=グリエや
      シモンなどは書くことの自意識が言葉を自在に戯れさせる想像力の典型と呼ぶに
      少なくとも相応しいものだ。こう書いたからと言って俺が反小説を顕揚してるなんて
      思わないと願いたいが、サンプル例として反小説的な手法は書く者の想像力および
      物語の神経症的な構造といったヘーゲル的項目とは対立するが、書くことの想像力には
      むしろ親和的ですらある。

      いやしくも詩人たる大先生には言うに及ばないと思うが、書くことの自意識にとって
      言葉は主従が容易に反転する危うい他者の磁場だが、書く者の自意識にとって言葉は
      既に頭の中で終わった物語を改めて表現し展開させる営みに貢献するだけの奴隷女に
      過ぎない。言葉を自身の欲望を満たすために酷使する奴隷商人の作品に少なくとも俺は
      興味がない。更に言えば、何故イメージの亀裂と大先生が言う疎外された永遠が同列に
      論じられるのかが理解できない。ここでの亀裂とはハイデッガー風に言えば存在の無が
      贈与−生成する方域の瞬間に立ちあった言葉の緊張したざわめきであり、このざわつき
      こそが生の隠喩連関の成立時に隠蔽された言葉のパラグマティックな生きた想像力の
      初源を開示し展開させていくことも可能にするものだ。大先生が挙げるバロウズの
      カットアップへの偏愛はこの言葉の生きた想像力を蘇らせるための実験の一つだ。
      まあハイデッガー的な地平とヘーゲル的なそれを大先生がやたらと混同することが
      理解できないと言ったが、最近時代の気分と相即してやたらとヘーゲル的になりだした
      大先生の昔の記憶を刺激するために一言いっておくと、ハイデッガーの存在論は
      ヘーゲル的疎外論を批判して、その不可能性と不可避性の間を揺れる緊張の生々しさに
      ついて延々と論じたものであり、疎外論は存在論では決してない。むしろ認識論だ。
      だからこそ吉本はそこから表現論を抜き出すことも出来たわけだ。



     ウオッチング その1 その2 その3 その4 その5 その6
     その7 その8 その9 その10 その11 その12 その13 その14
     その16 語録集 その1 その2 その3 その4 その5 その6


@えいえんなんてなかった & 某Jの掲示板 からの転載をまとめたものです。


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