ダーザイン・ウオッチング(その14)


 投稿者:   投稿日:2002/06/17(月)20時24分03秒 

       Λ  Λ
      (;`Д´)プフィ!
      いつまでたっても職が見つからず夜も眠れず酒を買う金もなく存在論的差異の深淵を
      前にしてひとりプルプル震えつつ玉蹴り厨うぜえと無の交差する掲示板に書き込めば
      140億光年彼方の宇宙の果てのがらんどうの蒼穹に「タマチュウウゼエ、タマチュウウゼエ・・・」と
      虚しく木霊する自己言及性の可塑性の永遠をめぐる円環構造の自意識が相も変らぬ否
      定神学的色彩を帯びて私を責め苛むのは全て某Jと某Sの文学観がイマジネーション
      というものの真髄に一切触れ得ないたちのものであることに起因するのです。イマジ
      ネーションとは狂気に世界性を帯びさせることにより世界の狂気を暴き出す世界への
      挑戦であり、この世界との本源的な戦いは自らの脳内で自らの脳を世界の異常な現存
      のほうへと近未来小説的に同化させるべくリアルと呼ばれる妄念の質そのものを変容
      させる戦いなのです。リアルという外部に届こうとする職人芸的作業というものは現
      代文学にとってすでに前提条件というか、陳腐極まりない姿勢であり、先鋭的文学徒
      にとっては新たな世界性を孕むこと、自らが変容者として新たな世界となることが求
      められているのだと思うがいかがなものか。


>   投稿者:某J  投稿日:2002/06/18(火)18時41分26秒 

      別にそれでもいいんですが、問題なのは何度も言うように想像力の飛躍に
      よる世界の世開性そのものの転倒が言葉に巣くった他者性の蠢きを介して
      偶有的に表現されるしかないということです。例えばこのようなやり取り
      の前提となる散文、内なるまたは外なる混沌を整序した明瞭な意思を伝達
      し他者を説得させようとする散文は言葉と物との志向関係を日々の利便の
      ために固定化させた共同体の慣習的コードに寄りかかった言葉の惰性態で
      すが、まあこれ自体は社会生活の基礎でありその基礎がないとむしろ困る
      ぐらいなのでいいとしても、しかし言葉の芸術はこのような基礎を懐疑
      するところか始まらなければ百年前の自然主義と大差ない愚劣な無頓着
      ぶりは避けられない。この無頓着さとは世界は存在論的に現存在に属し
      ており、その世界=現存在の単一性というブランショ風に言うところの
      本質的孤独こそが世界外の大文字の他者を逆照させる証であるにも関わ
      らず、その大文字の他者を小文字の存在者へと転倒させ自分とあなたが
      世界の中で対面するという訳の分からない三者構図を手前勝手に捏造する
      浜崎鮎風の陽気な陰鬱さと背中合わせです。私は最近これを演歌と言って
      います。で、新感覚派が言葉と物との平明な言文一致的対応関係の窮屈さ
      を糾弾したように、シュールレアリスムが物から乖離した言葉のインフレ
      に自己の不在証明を求めたように、または現象学が客観的世界の実在性を
      胡散臭い信憑としてエポケーしたように、言葉及び自己は無償で事物また
      は他者を指示し表現するわけではありません。

      今さらながらで何とも恐縮ですが、表現とは表現するものと表現される
      ものの複合体です。表現されるものは同一的な内容に支えられていますが、
      表現するものは諸記号の連鎖関係において他の諸可能性を否定することで
      潜在的に導出される差異を孕んだ偶有的な形式であれば、表現とは偶有的
      な形式を支えにして同一的な内容を提示するという一種の賭けのような
      ものであり、認知意味論風にいえば言葉の意味とは主観の表象とその表象
      の生成傾向をパターン化した諸構造との織り物、つまり内在的な配置連関
      の産物であり、それが指示すると思われるものもその内在性の物象化に過
      ぎません。言うまでもなく、その主観の表象とは言葉の配置連関が孕んだ
      空隙に宿る偶有物を自分が創り出した同一的内容物と誤認したところのもの
      であり、言葉に蠢く他者性が受動的に誘発した模像を自身へと能動的に折り
      返したところの鏡像的なものでしかありません。で、そのような表現の存立
      を危ぶませる賭けのヤバサを庇護するのが物象化された外部という鏡であれば、
      その鏡を破壊しようとする姿勢は全く陳腐ではない。その姿勢を指して言葉の
      他者性に殺されると言うわけです。

      外部と外部性、現実と現実性、リアルとリアリティはハイデッガー風に言えば
      存在と存在者ぐらい違うものです。現実性は現実を解釈する感受形態であり、
      その感受性はつねに言葉に籠絡され馴致されています。カントが想像力を
      感性と悟性を繋ぐ蝶番としたように、想像力の飛翔領域は言葉に支配された
      悟性形式に封殺され限定されています。その想像力の可能性を言葉の拘束力を
      突破する理性の無限性へと転倒させ、言葉から乖離した概念の抽象力が発展
      深化していく過程に人間が神へと歩んでいく姿を見たのがヘーゲルという
      観念論者だとすれば、言葉による被拘束性に目配せをしない発想は必然的に
      観念的増長を帯びざるをえない。ところで想像力の可能性とはその不可能性
      の裏面です。まさに不可能性を飛び越える甘美な幻惑が可能性を捏造する。
      だからといって別に観念小説が悪いと言っているわけではない。ド・マンが
      ほのめかしていることですが、ヘーゲルは想像力の極限においてほとんど
      外部性に隣接してしまった。想像力の酷使がかえって外部性に人を導くこと
      になるということは同時に本当の職人は職人の圏域を越え出ることにならざる
      をえないということです。言うまでもないですが、ヘーゲルは職人です。

      要するに想像力は言葉のまどろみに籠絡されざるをえない。したがって
      真の想像力とはそのまどろみから抜けだし、自らに覚醒を強いる不断の
      自己検証を伴わずには実現されない。自身を貫き取り巻き支えてくれる
      言葉の居心地のよい牢獄から脱出するためには言葉とじゃれ合うのでは
      なく、言葉と本気で喧嘩をしなければならないという真意はこれです。
      人は大抵言葉と喧嘩してるが、意識して何かをしようとするとつねに
      負けることになっている、それも負けたことに気づかないどころか
      負けることに嬉々としているとヴィトゲンシュタインは言ってますが、
      人は何も考えずに普通に生きていればつねに言葉と喧嘩する場面に出く
      わしているはずです。日常に潜む狂気とはこれ以外の何物でもありません。

      存在の呼びかけで存在者の世界が開かれるように、言葉とはそもそもが
      執行文だと生成文法学派風に言うことが出来ます。つまり言葉とは第一に
      私という一人称、第二にあなたという二人称、第三に現在形、第四にTELL
      という執行動詞の複合体だということですが、言葉という一人称が私という
      二人称に現在時において呼びかけるという構図が全ての言語活動の前に隠れ
      ている。そしてその呼びかけによって私は言葉という土俵上へと被投され、
      そこから言葉に拘束された牢獄暮らしが始まる。本当の想像力とはハナから
      負けが決まっているにも関わらずこの土俵に上がることを何とか拒否しよう
      とする終わりなき不可能事への挑戦です。想像力とは上昇するのでなく、
      下降するものです。そしてほとんど作中には目立たないが、異様な感触だけ
      がそこはかとなく伝わってくるものを私の中では指しています。例えば
      最近の日本文学では大鋸一正みたいな感じです。

      まあ、こんな感じですが軽く聞き流してください。


>d  投稿者:某J  投稿日:2002/06/21(金)11時30分52秒 

      > 大鋸一正読んでみた。とても上手な文を書く奴だが無意味無内容で上昇も下降も
      > イマジネーションのかけらもないような気がしたぞ。何がどう良いんだい?

      だから、この場合の想像力とは作中に遍満しないが異様な感触だけを
      痕跡としてそこはかとなく残していくものであって、もうちょっと正確に
      言えば想像力が全く微動だに作動せずに失語症的に痙攣するゼロ地点への
      感覚とでも換言できるしろものですよ。要するに一般的な意味での想像力
      そのものを禁欲することがかえって本当の意味での想像力を滲み上がらせ
      ているのが大鋸の作品です。

      自意識は物の直接的世界を概念の網目で覆い隠し、その結節点に抽象された
      直喩の貧しさを内面という吸収媒体を通して豊かさへと転倒し、その生々しい
      抽象度を自己の肥やしとして発展深化していくという形式をほとんど回避でき
      ない。差異性の諸体系に重層的に構成され、多義性が反映し合う隠喩の瞬間に
      凝結された存在の場からその一局面を切り取り抽象化し、その抽象性を確実性
      のアリバイとした近代科学的な発想がロゴス中心主義なら、そのロゴスに還元
      されない詩的イマージュは隠喩が反映しあう多義性の生々しい瞬間を物の中に
      透視する作法に支えられると言えるかもしれない。ところでリクールは直喩は
      物事を論理的に説明し意味づけ輪郭付ける思考する意識の側に属するとすれば、
      隠喩は物事が衝撃的に刻印される瞬間を視る無意識の業に属すると言ったが、
      思考は隠喩の戯れが刻印された痕跡をめぐって派生するロゴス的表象とそこに
      還元されない意味ならざるものとの対立−対決を一方を一方に従属させると
      いうかたちで直喩の確実性を獲取することになる。この回路が自意識が現実の
      破壊的な過剰さに対面しなくとも済むような内面という防護膜を徐々に形成
      していくことになる。しかし、このような身振りが存在が贈与する物の上澄み
      を存在者の生気のない連関世界へと組み込んでいくような、自意識が回避でき
      ない似非想像的な展開形式であることはおそらく分かって頂けるでしょう。
      要するに意味や内容で作品をかたどっていく思考の業は本当の想像力から最も
      遠い。意識は真の意味で全く想像的ではない。むしろ想像力を殺すのが意識だ
      ということです。カント風に言えば物自体を感受し、現象として再構成する
      構想力に潜んだ無限の可能性は結局のところ現実の過剰さを内面の皮膜のうち
      現実性としてに手懐ける「崇高さ」しかもたらさず、その想像力は直喩的だ
      ということです。言うまでもないですがニーチェのルサンチマン批判は
      カントの崇高論への批判です。

      ならば想像力はどこにあるか。簡単です。視ることに想像力の淵源はある。
      思考や意識は視られた対象を解釈し意味づけしコード化することで語りの
      牢獄に現実の過剰さを籠絡し馴致させ気抜けさせてしまう。そこでは視る
      ことと考えることとの、根源的な受動性の体験と派生的な能動性の経験の
      間にあるズレが全く意識されない。ヘーゲルは現実を現実性へと変換させる
      語り口に想像力やそれに準じた豊かさを求めがちになった。が、その能動の
      豊かさが存在者の円環世界の中でのものでしかなく、その円環を外部性と
      して更に支える位相を存在として見出したのがハイデッガーならば、視る
      ことと考えることとのズレにこそ本当の意味での想像力の淵源が求められ
      なければならない。ロブ=グリエじゃないが世界は不条理ではない、世界に
      意味があると妄信する神学的欲動が世界は不条理で意味が欠けているとか
      ほざきだす薄っぺらい実存主義の陰鬱な多幸症、つまり演歌をもたらすこと
      になる。

      視ることは完全な受動性の体験です。そして完全な空虚な無意味、正しくは
      非−意味の体験です。そこを基点として有意味と無意味の二項に支えられた
      散文的な世界が開かれてくる。実際、人はこの視ることの受動性と考えるこ
      との能動性の位相を相互環流しながら生きている。まあ大抵は後者にのみ
      力点が置かれているのが常だが、ふとした時にこの受動性の位相に転がり墜ち、
      世界に対する距離と方位を測定する個の同一性の感覚が内破されるような薄気
      味の悪い感触を体験したことは誰にでもあるでしょう。その体験を指して無に
      触れていると言います。その無という非−意味の位相に耐えられないとなると、
      それを自己の根源的な空虚性を媒介にして有意味と無意味に彩られた白黒世界を
      越え出た無限遠点に設定されし超越者という極彩色の純粋性へと反照的に捏造
      する操作が生じ、その純粋性を自己の空虚性の担保とすることになる。つまり、
      非−意味の灰色が意味そのものを越え出た極彩色に反転されることになる。この
      自己の空虚さと超越者の豊かさが一致する基点から始められる想像力は結局、
      世界の混沌を無限遠点が保証する意味によって階層化するヘーゲル的想像力、
      思考的な想像力、ハイデッガー風に言えば頽落した想像力ですよ。要するに
      ルサンチマンというものにしかなりません。

      つまり多義性の戯れが露呈する隠喩の豊かさは極彩色ではなく、灰色です。
      それは豊かさではなく貧しさに過ぎない。その直接性の貧しさを概念の網目
      へと抽象し吸収し、その抽象度を自らの肥やしにしなければならない意識の
      防護膜が自らの皮膜を通して事後的にそれを豊かさと誤認しているに過ぎない。
      過剰な多義性は自意識にとって自らの認識能力を超え出た無義性でしかない。
      が、その貧しい無義性が自意識の内部を通して把握されると豊かな多義性に
      転倒される。この転倒はルサンチマンの典型です。太陽を裸眼で視れば失明
      するように、過剰さとの対面はその人に貧しさをもたらす。隠喩の豊かさは
      直喩でしか生きられない自意識の内部を通して事後的に見出された鏡像的な
      錯誤でしかない。そしてその錯誤の上に成立するのが頽落した想像力です。

      で、ようやっと本題だが、大鋸の作品世界の特徴の一つは離人症的な視線
      空間です。ここでは事物が何ら思考による意味の蒸留を醸すことなく、視
      られたままが視られたままに描かれ、解釈(思考)は行為(視る)につねに取
      って付けられたように後行し、徹底的に立体的な深みを欠いた単調平板で
      くすんだ世界が展開する。作中人物の行為や心理を跡付ける意味や内容な
      んぞはほとんどないも同然で、問答無用で視ることの受動性、有意味と無
      意味の白黒世界そのものを贈与する非−意味という灰色の体験の受動性が
      徹底化され、その灰色が下手に極彩色の超越性に反転させられることなど
      一切ない。「春の完成」を読んだみたいですが、UFO目撃のシーンがありま
      すよね。このシーンの意味は何か?こんなことを書くのは野暮なんですが、
      UFOを目撃したこと、UFOという普通なら誰でもその象徴的な意味づけに
      大騒ぎし何かと思考の澱に飛び込んでいき、下手をすると解釈不能な灰色
      の貧しさを極彩色の豊かな異界信仰へと反転させかねないような未確認物体
      をただ単に<視た>ということ、視ることの受動性を浮き彫りにさせる
      小道具の一つがUFOという異常物なだけです。死体にすると岡崎京子みたいに
      叙情の臭味が鼻につくし、後の構成に問題が出るからね。更にもう一つ、
      妹の失明シーンがありますね。これは経験−思考の能動性そのものを根底から
      脅かす圧倒的な受動性の体験−視線によって自意識の能動的な語り口が内破
      されるという象徴の一つで、語ることの限界と視ることの開始を示す演出
      です。ハイデッガー風に言えば頽落から先駆的なんちゃら性への移行です。
      語りによって能動的に籠絡できない過剰な現実との受動的な接触が視ること
      そのものを可能にすると同時に不可能にするというような、まあ目をえぐり
      取ったオィディプスの寓話を少しひねって全体の参照符へとするといった
      感じなので、手慣れない題材を書いたら失敗したとか、そんなじゃありま
      せんよ。まあこの演出自体は凡庸といえば凡庸だが。

      要するにここでは近代的な自意識が容易に短絡しがちな頽落型の想像力が
      徹底的に禁欲されているわけです。だから作中これ見よがしに想像力は
      遍満することがない。というよりむしろ視る体験の淵源からもう一つの
      想像力が顔を覗かしている。思考と視線、直喩と隠喩、能動と受動の狭間
      に固執することで思考的な想像力の不可能性がもう一つの想像力として
      浮かび上がっている。その浮かび上がらせ方が視ることの受動性として
      徹底されているかぎり、大鋸作品の貧しい平板さはヘーゲル的な意味では
      ない本当の想像力をそこはかとなく滲み上がらせることになる。で、この
      ような頽落しない想像力こそが本当の意味での想像力の名に値するわけです。
      視ないで考えてばかりいる想像力はいつまでも存在者の回付連関に捕らわれた
      頽落型から抜け出せないでしょう。視てばかりいてもしょがないけどね。


オマケ  投稿者:某J  投稿日:2002/06/21(金)12時16分57秒 

      視ることの受動性に力点を置くことの重要性をまた職人芸がなんちゃらとか
      観察することと視ることを混同誤解されると面倒なので、補助線を少し引いて
      おきますわん。昔にTommy Feb6について云々した時に大仰に引っぱり出して
      遊んだブランショの一節をまず一つ。大先生がブランショに言及してたので
      その絡みでね。

      > われわれを幻惑し、われわれから意味を与える能力を奪い去り、おのれの
      > 感覚的性質を捨て去り、世界を捨て去り、 世界の手前に引き退き、われ
      > われをそこへ引き寄せるもの、このものはもはやわれわれにおのれを開示
      > しない。だが一方、それは時間における現在とも空間における現存とも
      > 無縁な、ある現存のうちでおのれを断言している。この分離が先には見る
      > ことの可能性であったのだが、今や視線の直中で不可能性へと凝固するのだ。
      > (中略)この視線においては盲目もまた視覚の働きだ、もはや見る可能性では
      > なく、見ぬことの不可能性としての視覚の働きだ、この不可能性は終わる
      > ことのない視覚の働きの中で己に見させる−−常にまた常に−−執拗に
      > 見させ続ける。つまりそれは死んだ視線だ、永遠の視覚作用の幻となった
      > 視線だ。(M.ブランショ 『文学空間』 「本質的孤独」) 

      このようなブランショ的な意味での視ることの体験(観察という経験では
      ない)を言っているんですが、要するに視ることの受動性の体験とは
      視られることの受動性です。何に視られるのかと言えば、ブランショの
      文脈では存在でしょうが、大鋸の文脈ではほとんど「考えるな、見よ」的な
      ヴィトゲンシュタインっぽいとしてもまあ互換は出来るので一応ね。
      この点だけで言えば大鋸は相当「文学空間」当時のブランショっぽいですよ。
      笑い。視る視る言っても、視た段階で現実は現実性へと変容してしまう
      ので、ほとんど不可能な業なんだけどね。まあどうでもいいよ。おわり。

      http://www5e.biglobe.ne.jp/~bouj/text/tommy.html


 投稿者:d  投稿日:2002年06月18日(火)21時56分47秒 

      すこぶる調子が悪い。某Jがまともでまっとうな見解を述べているが因縁をつける
      気力も沸かない。既知外じみた振る舞いはいたこの婆さんのように得体の知れない
      言葉を呪現させてくれるのだが不眠でじりじりした頭では何をする気力も沸かない。
      今日は眠剤を貰ってきたので多分寝れるだろうと思うが。眠剤の眠りはなんか不自
      然でいやだな。


 投稿者:d  投稿日:2002年06月25日(火)21時07分47秒 

      某Sが新しい板を立てたようですね。
      ヘッセだったか誰だっか忘れたけれど、馬鹿な絵描きが真っ白な画布を提示し
      て、「これは前衛芸術だ」と豪語する様を笑う話がありました。これは極端な
      例ですが、似たようなことは文学にもありましたね。先日も書いたのですが、
      存在だとか世界だとか、或いは人間の存在といった事柄からあえて意味も内容
      もイメージの喚起も排除しようとする手法です。アンチロマンの類いは大昔に
      読んだのであまり憶えていないのですが、そういった文学にも歴史的な意味が
      ありました。前世紀の前半にはそういった作家がたくさん出て、存在の空虚や
      無に触れる言語を探求しました。世界の世界性、人間の人間性を支配し、固定
      され硬直した意味、価値観、予め定められている陳腐な意味を転覆し、新たな
      地平を開こうとする革命的な運動であったかもしれません。しかし、ためいき
      氏が「モーリス・ブランショはハイデガーのネガだ」と言っていましたが、い
      かにもそんなところで、ブランショはハイデがーの「存在」からあらゆる聖性、
      神性を排除し、無意味な物語の中に存在の空虚を、空っぽの世界性を現そうと
      しましたが、結局空虚になった存在の周りを虚しくめぐる否定神学的な構造の
      中にからめとられていましたね。ベケットも同じ。彼らは存在論的な意味から
      逃れ出ることはできませんでした。(僕は存在論的な欲求から無理に逃れ出る
      必要なんてないと今は思っているのだけれど。)
       その辺の不毛を突破したのが、J・G・バラードです。彼は「終着の浜辺」
      と「残虐行為展覧会」、短編集「死亡した宇宙飛行士」などで存在論的欲求を
      生きながら存在論的欲求を超克しました。世界性に死を宣告したにもかかわら
      ず彼の文章はなんと豊穣なイマジネーションに満ちていることか。それらのア
      ンチロマン的作品の後に書いた「クラッシュ」や「21世紀のコロンブス」なん
      かも前衛度は下がりますが面白いです。「クラッシュ」などのテクノロジー三
      部作といわれるものの後は、物語の復権を目指しているようですね。はずれも
      多いみたいだが。
       人の生は歴史を内的に繰り返すことによって展開されるので、僕も若いころ
      はブランショみたいな小説が好きだったこともあります。存在の空虚を無機質
      に描くのが文学の王道で、文学にくだらない物語性なんて要らないと思ってい
      ました。何も50年前の人間だけがお仕着せの価値観を突破しようとしているわ
      けじゃないからね。きっといつの時代の連中も同じことを繰り返すのでしょう。
      先日イマジネーションが皆無であると罵倒した大鋸もそんなところだと思いま
      す。今は頼まれてもブランショのような絶望的に糞も面白くないものは読みま
      せんがね。
       ただ、お仕着せの意味から逃れ出ることが、豊穣なイマジネーションを求め
      ることと相容れないなんて事はもちろんない。それどころか、なんども言うが
      小説であっても本来的に詩的なイマジネーションに満ちた文体こそが最高の文
      学であると僕は思っています。フランスの小説家ですが、ジュリアン・グラッ
      クやマンディアルグの文章は素晴らしいですね。一行一行が詩神に祝福された
      ようなポエジーと驚愕的なイマジネーションに満ちています。

      追記。
      物語やイメージが既に誰かが書いたものの二番煎じだから無意味だなどといっ
      てみることには何の意味もない。そんなことを言い出せば、二番煎じでない言
      葉などという物はこの世に存在しない。到来(書く者なら誰でもわかっているこ
      とだが、書くということは受動でも能動でもなく、受動的能動とでもいった状
      態だ)した言葉はその作家の言葉だ。


本物のカマッテ君へ  投稿者:某S  投稿日:2002/06/26(水)20時51分25秒 

       評論家きどりでアレコレ文学を論じているわりには少し理詰めで応酬される
      と話をすり替えてきて、よくわからないんだけど作家と評論家という立場を当
      て嵌めようと必死になって、

      ダーザイン=想像力に満ちあふれたウェブ作家(主人公)

      某S&某J=ウェブ作家に難癖をつけるイヤな評論家(悪役)

       とでもいう芝居を打って、俺が(たぶん某Jも)別に何にも否定的な言及を
      していない筈の、ダーザイン流の表現でいう意味での「文学のイマジネーショ
      ン」とやらを俺たちが否定していることにされ、勝手に話を進められていると
      ころがまさに、まともに議論をしたいのではなく、自分の主張を駄駄っ子のよ
      うに俺やみんなに見てもらいたいだけのカマッテ君だというわけなんですが、

       それはまだしも、ある文学潮流を一切認めずに、ただ至上の文学とやらがあ
      るのであって、それに該当しないものは一切屑だと切り捨てるような文学観は、
      よくいるタチの悪い評論家の態度そのものであり、SFを否定してきた頭の古
      い連中と同レヴェルになってしまうのでやめたほうがいい。作家としての己の
      信条を批評のなかに姑息にまぎれこませる手口はディベートの範疇を遥かに超
      え、その作家性までが疑われることになってしまう。まあ見てのとおり議論や
      評論になっていないのだから、持論ということであれば別によいのだが、それ
      にしてもずいぶんトンデモな論だ。

       こう終えるとおそらく、俺が大鋸とやらに見られる手法を至上のものとして
      いることになり(むしろ俺は否定するスタンスを示した筈なのだが……)、文
      学のイマジネーションを否定しており(一度たりとも否定したことがないにも
      かかわらず、技巧の話をしていたら勝手に難癖をつけられ、一度は話し合って
      納得された筈が、意図的にか病気的にか忘れられ、今に至るのだが……)、さ
      らには「あいつらは評論家だから何を言っても無駄だ」と逃げられることにな
      るのだが(まともに話す気がない and/or 話す能力がないのなら最初から議論
      なんか吹っかけてこなきゃいいと思うのだが……)、

       不眠と疲労の鬱憤を晴らすためにいちいち引き合いに出されたのでは、こち
      らとしてはたまったものではありません。笑い。

       まあもう少し続けてもいいんだけど、それよりマンディアルグとかあのへん
      の、シュペルヴィエルとかマルセル・ベアリュとかの話をしましょうや……。


輸入 投稿者:改め四谷怪談  投稿日:2002年07月30日(火)08時37分18秒

      @暫定に少し前に、今もいるのかまあわからんがカマッテ君という象徴的な
      固定が登場して周囲を席巻していた記憶が少ししかない解離性遁走型な俺は
      今さっき(この投稿は7/14付けです)出掛けたコンビニの店員がピアス付き茶色
      短髪のくせに清志郎に微妙に似ていたことに思わず唾フイタぐらいなんだが、
      カマッテ君の象徴性は大きな物語の実効力が低下した脱近代の症状を典型的
      に逆照させるところにあったわけ。

      そもそも(この「そもそも」という語法は自明性の捏造という含意がある)ね、
      自意識というのは他者の抑圧を通してしか自己規定できない存在論的構造に
      あるとはラカンが言っていることなんだが、まあラカンというと現代思想
      嫌いはアレルギー起こす馬鹿もいるのでそんならばバークの本質のトート
      ロジーとかランボーの我は他者なりとか固有名の意味作用の空虚さは偶然
      な特殊対象の諸性質を記述する操作の過程で見出されると言うクリプキ周
      辺でもマルクスの価値形態論でもいいがまあ日本人には仏教の即非の理論
      でもいいよ。真理は糞掻き棒であるという言説は単一対象の同定は他の
      無数の諸対象の換喩的な連鎖関係の輪の中に組み込まれているかぎりで
      Aという対象はBという対象を通して、BはCを、CはDをという無限連鎖の
      運動の渦中においてしか可能でないという認識と密接に結びついている
      わけで、真理の同一性は糞掻き棒という他なるものを媒介して初めて成
      立すると説明したのはまあ大拙に過ぎないんだが親鸞も同じこと言ってるし。

      近代ではフーコーのパノフィティコン装置ってやつがあるじゃん。つまり
      大文字の他者が主体の内面を透明なガラスケースにピン留めして一望監視
      することが同時に主体に他者の視線を内面化させることで当人の自己同一性を
      成立させるってやつだけど、ここで言われてることはそのまま小文字の物語
      を日常的現実として生きる諸個人は大きな物語という他者の承認の視線の下
      で自己の位置を把握できて安心平和に日々を送れたってことと類同的だ。
      要するに近代では主体の同一性の前提たる他者がほとんど暗黙のうちに了解
      されていた分だけ人は楽に生きれていた。

      で、ポモにおいてはその主体の同一性を承認し裏側から支えてくれてた他者の
      視線が雲散霧消してしまうわけだから、まあ初めのうちは楽しいよ、他人、
      といってもまあ内面化されることで存在感を持った他者に過ぎないが他人に
      テメエの逐一を監視される息苦しさから解放されるわけだから。でも時を
      経れば不安が増すわけ、他者を通してしか自己規定できないのが自意識の
      存在論的前提だから。そこで出てくるのが自己の同一性を定立させる媒介的
      契機たる他者、他なるものへの希求という運動、つまり恋愛談義めいた諸々
      だが、これはまあ色々とあるのでいいとして、単純にいってこの不安を解消
      させる希求対象は大きく言って二つに分かれる。

      第一に四六時中携帯を眺め回すことで他人からの連絡が自分にあるか否かを
      確認し続けないと気が済まない携帯神経症、他人の呼びかけに自分が必要な
      存在であることのアリバイを目下求めよ〜♪
      第二にポモにおいて瓦解した物語−歴史を想像的に回復させようとする社会
      運動めいたもので、共同体的な物語という大文字の他者の視線の下に自己回
      復を果たそうぜえ的な流れ。まあ単純化してるが、この手の流れは他にも
      あるでよ。例えばネットで自宅内の諸々をさらけ出す馬鹿とか最近エロサイト
      で流行の投撮ものとかね。被害妄想の典型は電波が云々と言われるが、あれは
      自意識の構造を分かり易く抉出してるね。つまりそこでは自意識を支える他者
      の抽象的性格が一挙に具体的な輪郭を、輪郭だけ具象的なかたちをとっている
      という点でね。まあ要するに自己の同一的基盤の中核であった他者の視線が失
      われた反動でその空虚な穴を埋めるために色々なかたちで具象的な他者への衝
      動が前景化しはじめているのが最近だろ。監視する近代の視線は抽象的非人称
      的だが、現代の監視する他者は具象的だ。具象的で且つ抽象的というねじれを
      持っているというのが正確だろうが、まあいいや。

      カマッテ君の象徴性はこの自意識の存在論的前提が危殆に瀕した脱近代的な
      かったるい社会状況を戯画的に見せてくれるところ、カマってということは
      他者の承認を希求するわけでそのかぎりで承認が自己自身に再帰することは
      不可能だという構造を浮き彫りにさせる先鋭性に驚嘆しすぎない我々は氷結
      果汁をカマッテ君に! 四六時中他人がいてその関係の被投性を通して自己認
      識がもたらされヒューム的な離人症から解放される安心感をいつでも気軽に
      享受できるネット環境も自意識が直面した社会の混乱を想像的に乗り越える
      機能の一つとしてほとんど上述の構図に近いとは思うけど。
      ということは俺もカマッテ君ヽ(´ー`)ノこれから便所で下痢ってくるよ〜ほえほえに〜


輸入2 投稿者:改め怪談  投稿日:2002年07月30日(火)08時45分48秒

      占いは無数の人格に関する事実的データを帰納した蓋然性の一般理論をさらに
      個々に演繹的に適用するという循環運動をとってるが、人格概念自体が胡散臭い。
      人格はパラノイア性だといったのはラカン、要するに自力では自己表象の統一像
      を確保できない人間は他者の中に見出された高次の統一性を想像的に獲取する
      ことで意識を活かせる、これを不全な私と理想の私とのズレとして時間化すると
      近代の人間類型が出来上がる。要するに人格は外界に対峙する堅牢な一枚岩では
      なく、他者を媒介とした社会性の産物であるかぎりで偶有的だ。

      山田広昭は近代主義は危機から価値を創るが、ロマン主義は遅れから価値を創る
      というが、敷衍すれば現在の価値体系の中に相対的に利便な価値体系を潜在的に
      導出していくところに剰余を取る資本主義のダイナミズムは一方でつねに危機を
      てこにして自己上昇を図り、他方で危機の淵源である遅延、つまり時間的なズレ
      をも孕む限りでロマン主義的なものを派生することになる。こう考えればロマン
      主義は産業資本主義以降の社会的産物に過ぎない。そもそも西部は進歩主義を批
      判してるが、進歩は資本が要請する技術革新的な差異化の運動が構造的に結果した
      ものであるかぎり批判したり云々できるもんではない。資本主義は全てを普遍化の
      荒波の中に引っ張り込んでいくのでそこでは特殊性を民俗なんかと意味づける伝統
      や慣習は必然的に堕落し腐っていくことになる。
      つーか、例えば民族精神という言葉を打ち上げたヘルダーはフランス流の啓蒙主義
      への反発からそうしたんだが、ここには啓蒙主義的なリベラリズムが同時に反啓蒙
      主義的な民族主義を産み出すという動きがあるが、しかし、これは単なる反動では
      ない。後者の主張は前者の徹底化であり、普遍性を偽装したフランス流ナショナリ
      ズムを相対化する視線の提出であるかぎりで、90年代以降の文化多元主義と多文
      化主義との確執はこの構造的な反復と考えられる。

      占いはそもそも未来の偶然性を前もって骨抜きにし過去へと送り返してしまう作業、
      つまり未来としての他者の不確実性を過去の確実性に転倒させる。過去を現在の結
      果とする表出因果性と現在が過去を遡行的に構成しているという構造因果性との対
      立では明らかに前者が説得力で上回っている情勢が形成される昨今の社会的様相を
      背景にすれば占いの流行は人格の同一性を前提にして未来志向的に生を計画する演
      歌の動きと共鳴し、共同体論者や保守派の流れにも繋がり、さらに人格の根源的な
      同一性を前提にしそこからの乖離にヒステリー要因を求めたジャネの再評価が高ま
      るアメリカでは生そのものが自己と他者に存在論的に分裂しており、両者は一つの
      カップルだというフロイト−ラカン路線が軽視される。別に軽視自体に問題はない
      としても個人の同一性を暗黙の前提として議論を進める発想が時代の欲望に極めて
      合致していることも疑いない。したがって占いは自分を占っているというより占う
      と想定された想像上の他者と自己を合致させようとする悲しい人間の性のロマン主
      義的な表れ、ロマン主義的な関係の物神化は人間のフェティシズムに繋がる。

      このフェティシュ自体は大澤が言うように資本の不可能性の条件となる。何故なら
      資本が絶え間なく他者を無限連鎖で想定し続けることで貨幣の循環という必要条件
      を可能にするという岩井の言を信じれば、人間関係の対幻想的な物神化はこの資本
      の動きを相互関係の自閉性へとせき止める動きを持つからだ。したがってロマン主
      義は理論的には未来への道を切り開くような賦活剤を求めながらも、実践的には
      その正反対の自分の頸を締めるようなことしている。このような戯画を総称して
      最後の演歌の時代と言おう。最後の〜の時代とはクンデラのパクリらしい。


 投稿者:d  投稿日:2002年09月23日(月)21時40分26秒

      @レイン萌えのような様相だな、わらぃ。毎日貼ってくれ。

      http://cgi.www5e.biglobe.ne.jp/~bouj/cgi-bin/bbs.cgi
      某Jにボードリヤルがらみで因縁をつけ始めた。
      明日は朝が早いので今日はレスをつけないで寝るが、以後も執拗に、意図的な誤読と
      既知外じみたイマジネーション論、シュミラークル論で因縁を付け続けるつもりなの
      で見るように。
      某Jは非常に学があってネット上でも所謂リアルでも得がたい存在なので、皆も頻繁に
      訪れて因縁をつけるように。わらぃ


>d  投稿者:改め某J  投稿日:2002/09/30(月)02時13分55秒 

      > http://www.strangeworld.cx/cgi-bin/remix/bbs.cgi?area=social03
      > 既知外じみた長文を頼む

      ボードリヤールを云々する割には視聴者の感情転移を容易に促すべく物語として
      夾雑物を含みながら編成された諸印象の演出作法に膨れ上がったところのテレビ
      映像に即応的に状況論を読み取る感性がよく理解できないんですが、まあそれは
      措いといて、現実のとりとめない不定型さに差異の解釈格子を適宜に鋏んで
      発見=捏造された問題に託けて善意のお喋りをくっちゃべり敵対すべき悪として
      表象されたアメリカンイデオロギーに対峙することで対他の地獄に苦しむ実存を
      連帯の輪に向けて相互協約させることのアポリアの打開策をナチの記憶を護符に
      した共産主義への憧憬に操作的に見出す身振りに彩られた一時期のサルトル、と
      いうよりは多分に戦後検閲の問題に取り組んでいた時期の江藤的な身振りの
      かったるさも、まあ措いといて、議論よりも行動を優先しろとシニックに語る
      観照と実行以来のあまりにも日本の近代文学的な淡白な素朴実在論も、まあ
      措いといて。

      例えば他国の文化風習を条件付けてきた歴史性への無知に象徴されると称される
      ところのアメリカ人の面の皮の厚さと言うような人口に膾炙する一般論は元々
      アメリカが海外から流れ込んできた亡命者の国であり、その玉石混交ぶりがまさに
      国民国家を農耕民的に正当化すべく通時的に編入され時節に応じた想起によって
      全体の緩みをなくすべく召喚される起源というコードを欠いているが故の結果であり、
      様々な国籍を持った多種多様な人種が同じ時空間を共有して生活しているという
      国内での日常的な感性の表れに過ぎないね。普通に英語をくっちゃべる日本人が
      いる生活世界で日々を過ごしている人間が海外で同じ様な面構えの日本人に英語
      で話しかけるのも当然ということであり、日本人だって海外で日本人らしき輩が
      見つかればそいつに馴れ馴れしく絡もうとする習癖を抑え難くなるのと同じ論理
      の延長線上に過ぎない。まあ国語概念と国民概念の双生児たるナショナリズムが
      希薄であるゆえに資本の動きに従って外に向かってどこまでも拡散するというの
      が欠陥と言えば欠陥なんだろうが、その欠陥をただ突くだけなら最近流行の文化
      習俗の固有性を尊重しろと口やかましい文化多元主義のお約束事、つまるところの
      相対主義の退屈な爛熟版を復唱して終わりだ。まあ新しい歴史教科書云々や最近
      話題になったルピン好きななら別にどうでも構わなくさっさと石原慎太郎に総理に
      なってもらい外国人労働者の制限と経済復興が結びついた商人資本的な寄生要素の
      排除でも高らかに謳ってもらって失業者問題に蹴りでも付けて欲しいとでも思う
      人もいるんだろうが、実際に殴られれば怒るように、またはゲイネタ乱発されて
      議論の場が封殺されれば怒るように、貿易センター爆破されれば怒るのであり、
      自分が前提する正式のコードを共有しない無関心な異質な他者を排除して切り捨て
      同質的な仲間内で自閉的に盛り上がろうとするその姿勢に関するかぎり極めて両者
      ともどもシュミットが言う最大の同質性に向かって場を塗り固めていく民主主義的
      なモラルを体現しており、何ともゲイネタ乱発の際に大先生が感じた憤懣と同じも
      のを世界帝国らしいアメリカも一連のテロ騒動の際に感じ取ったのだと考えれば
      イイんじゃないですか。そういえばベンヤミンはファシズムを政治の芸術化と
      定義して、そこに抵抗できるのは芸術の政治化だと言ったが、ここで言われてる
      のは世間一般にまことしやかに生産され流通され享受される諸々のイメージ批判
      なわけだが、まあパレスチナ問題を云々するならまず巷間に語り継がれる様々な
      紋切り型に素朴に感応するのでないぐらいの鋭敏さがなければまさにフーコーの
      言うような意味での権力装置の再生産に加担するだけの、批判対象の陰画にしか
      繋がらないということは、ゲイネタ氾濫に対する反応を一つ取り上げてもまあ
      分かるものですかね。どうでもイイですが。


 投稿者:d  投稿日:2002年09月30日(月)19時30分34秒

      常づね思うのだが、今回の書込みなどを見ても某J氏は長々と糞のような無意味無内
      容な長文を垂れ流しているだけで、実存論的なところが一切ないな。俺の問いにも何
      も答えていない。
      某J氏の哲学用語の羅列は、笠井潔と不毛なやりとりをしていたオカマと同じで、世界
      に届きうる言葉を放棄した、社会思想や意味という業病から逃げる為の手段としか見
      えない。
      パレスチナ問題は現実の中に、僕らの生きている世界の中に存在しているんだよ。
      パレスチナ人は日々虐げられて民族殲滅・浄化されようとしているんだよ。
      この世界の中で、お前が生きているこの世界の中で。
      世界がシュミラークルであり、そのようなものとして変容したのであれば、その変容
      を再度実存論的に生きなおす必要がある。どのように世界が変容しようとも、現存在
      は世界内存在なのだから。
      「砂が流れるように〜」と語られた現在を乗り越えていくのが文学者のイマジネーシ
      ョンであり、そしてまた社会思想の可能性でもあるだろう。
      放棄してはダメだということ。

      と、某Jに因縁をつけてきた。
      http://www5e.biglobe.ne.jp/~bouj/


>d  投稿者:改め某J  投稿日:2002/09/30(月)21時41分19秒 

      つーか、俺は圧倒する過剰な現実を前にした弱者の遠吠えをシニカルに甘受してれば
      イイとは一言も言ってない。ただメディア経由で生産され流通され享受されては再生
      産されていく紋切り型の構図に安易にもたれかかり、情勢の錯綜を素朴な二元論で
      単純化し事態の解明に迫る一種の陰謀説的な惰性はいくら真摯な善意の賜物だとしても
      必ず批判対象の陰画に陥り、悪として表象されることで対峙する一方の団結を高める
      ところのアメリカンイデオロギーに同じような硬直性をもたらす堂々巡りの悪循環に
      しか繋がらないと言っているわけで、だからこそ月並みな諸表象に対する批判的距離
      を介した自己および現実検証の契機がたえず導入される必要があるとベンヤミンに
      託けて言うわけだ。第一、場の盛り上がりを期するためにネタの一つとして書いた
      のだろう大先生の文章の幾つかが否みようもなく悪を殲滅する正義のアメリカの
      陰画になってるところだって多々あるわけだし、その二元論的な発想たるや自分
      でも分かってるだろうが贅言にも及ぶまいと言った感じでしょう。

      模像と演算の時代と言ったところでもちろん現実や世界が変容したのでなく、それらを
      意味として解釈する感受形式が変化したに過ぎない。例えばハイデッガーが言うように
      現存在が世界をゲシュタルト的な刺激の総体ではなく存在者の意味連関として措定する
      二重反省的な意識のモードを指すのであれば、まあ確かに人間はいつまでも世界内存在
      だろうし、いつまでも不断に生成変化する社会的諸関係の束ではあるということになる。
      が、そんなことはどうでもいい。重要なのは問題への接近法であり、錆びついた感受性
      の自己点検であり、世界の意味連関の付置の変容であり、共同存在の淵源に西欧近代的
      なヒューマニズムの御旗を掲げて事態の四の五のを饒舌に語り尽くすワイドショー的な
      空談の類にはない。世界と向かい合うと称する表情は真摯だが内実は紋切り型への
      フェティシュ度の背比べに過ぎない空虚なお喋りが無効になった事態には、まあ連赤
      事件を誰に頼まれたのでもなく勝手に総括し極めて観念的な観念論批判をものし上げ、
      口を開けば二言目にはアポリアアポリアと呟き、外部に超越することの不可能に直面し
      呻吟するボクの切実さをナルシスティックに自閉的に顕揚してご満悦だった実存病の
      笠井だって自身の酷愛のテーマを見切るというかたちで何とか地に足着いた対応を
      返そうとしているぐらいであり、それは東との往復書簡を見れば一目瞭然だろう。
      まあ笠井の実存病は現代に最も俗悪なかたちで繁殖する浜崎魚類系の演歌調と
      ほとんど変わらないから、その判断は妥当と言った感じだが。笠井を挙げるぐらい
      なら、まだ一時期の内面性への異様なまでの極度の緊張が左翼運動に蔓延するよう
      な軽薄な政治性を簡単に凌駕していた秋山駿の方が未だに示唆的だ。

      そもそも特定の政治の力学に動かされる中東情勢を実存論的テーマ云々という解釈格子で
      透かし見ようとすることほど傍観者の楽天を示すこともない。パレスチナ人が日々虐げ
      られているのであれば、上野のホームレスも虐げられている。そして砂のように流れる
      現代とはマイノリティの最低ラインを模索し、そこに世界の負を代行させ、その被害者
      に代わって自身が彼らの利害を代弁しようとする手法自体が孕んだ傲慢さと卑屈さの
      ありようが前衛主義や共産党、西欧中心主義などの失墜とともに疑問に付された時代だ。
      世界に意味はある。なるほど。しかしその意味で世界の見取り図を代表させるのは現実
      の複雑さから逃げ、単純化された閉域で自足しようとする欺瞞に過ぎない。放棄しない
      ことも結構だ。しかし放棄せずに握りしめられた酷愛のテーマは既に世界と何の接点も
      持ち得ないライナスの布に過ぎない。放棄しないということは、自身が慣れ親しんだ
      重力圏を不断に疑問を付す不安定さを積極的に選び、被害者を代弁せんとする闊達な
      語りが不意の失語に見舞われる可能性に常に身を晒し続ける弱小感を持つこと以外の
      何ものでもない。まず自身の代行欲など容易にはね除ける現実に絶句し、失語を体験
      したことのない人間に一体何が語れるというのか。

      第一、ポモっぽい時代において何が変わったかと言えば関係の場の変容だ。世界として
      表象される純粋な意味の見取り図に常に不純物が多方向から混在しているという認識の
      前提こそが最大の特徴だ。これは自己表象の問題でも同じだ。自身の一挙手一投足が
      いかに自分が望まなくても世界と不意に関係してしまうかという恐怖がない語りは
      単なる差異への好奇心の自己連鎖に貫かれた曖昧なお喋りに過ぎない。例えば資本
      主義に文句を言いながら資本制商品を貨幣で買うことの背理に直面したことのない
      人間の物言いの何を信じろというのかと話は同じだ。

      ところで初めに紋切り型のイメージに距離を取る姿勢が云々と言ったが、ここにこそ
      ロシアフォルマリズム以来の二十世紀文学の面目がある。世界を類似性を媒介にした
      イメージによる隠喩的思考で捉える発想への批判としての二十世紀文学はフッサール
      流の現象学的還元に通底する特徴を持つわけだが、ここからヌーヴォーロマンが登場
      したとまでいえばもうお腹も一杯だろう。文学のイマジネーションとはイメージの
      思考という意味の業病を徹底的に禁欲し、排除し、そこに亀裂を持ち込もうとする
      構え以外にない。それこそがベンヤミンの言う芸術の政治化であり、存在論化だ。
      そもそも大先生の芸術論はイメージ=表象的思考を毛嫌いしたハイデッガーでは
      なく、どう見てもイメージ=表象に生や実存が展開する様を看るヘーゲル的な色彩
      に貫かれているが、わざと言ってるのか。

      要するに放棄しなければイイという問題ではない。しかるべく時には放棄する
      勇気も必要だという当然のことを言ってるだけかね。


一部修正  投稿者:改め某J  投稿日:2002/09/30(月)21時47分00秒 

      ああ、最後の行文に誤読の余白があるかもな。

      要するに自分の手持ち札を放棄して真っ新な状態から始める勇気も時には
      必要だってことな。



     ウオッチング その1 その2 その3 その4 その5 その6
     その7 その8 その9 その10 その11 その12 その13 その15
     その16 語録集 その1 その2 その3 その4 その5 その6


@えいえんなんてなかった & 某Jの掲示板 からの転載をまとめたものです。


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