ダーザイン・ウオッチング(その13)


 投稿者:d  投稿日:2002年04月10日(水)19時38分22秒

                                                         Λ  Λ
      斬コロの人がウザイ絵文字を貼っていくので激しく不快です(;`Д´)プフィ!
      今日は起きたらもう17時を回っていました。職安によってから図書館に行って
      小説の続きを書こうと思っていたのにみんなパーです。今日は早めに酒を飲んで
      とっとと寝ようと思います。
      どんな映画が好きかということですが、いかにも聖なる酔っ払い伝説は大好きで、
      パッケージ欲しさに売り物のビデオをわざわざ買いました。あんな酔っ払いの
      ふうてんでありたいです。わらぃ
      執着して作品を追いつづけた監督は、タルコフスキー、ワイダ、アンゲロプロス、
      ベンダース、ヘルツォークなどです。とりわけ、
      タルコフスキー「ストーカー」
      アンゲロプロス「コウノトリ立ちづさんで」
      ベンダース  「パリ・テキサス」
      これらは、漏れの中では世紀を記念する3本です。


 投稿者:d  投稿日:2002年05月07日(火)23時54分58秒 ■ ★

      ロシアSR社会革命党戦闘団実行隊長として数々のテロルと革命を指揮し、3月革命
      後はケレンスキー内閣の陸軍次官を務め、ボリシュビキ共産党革命後は真の民主主
      義革命を目指すべく反革命軍の隊長として戦い、監獄の露と消えた偉大なる革命家
      にして詩人のボリス・サビンコフをググルしたらたった3件しか出てこなかった。
      糞のような古典的共産主義者が書いた彼を反革命として罵倒する文と、俺の「えいえ
      んなんてなかった」の中のおふざけと、読書記録が1件だけだ。

      ヘミングウエイ以上にかっこよい行動主義文体で一生一殺のテロルと絶望的に堕落
      していく革命を描いた彼の小説は歴史小説としても実存文学としても超一級だ。彼
      の革命文学は綺羅星のように輝くロシアの文豪たちの中でも際立つ異彩を放ってい
      る。一生一殺、命を賭して皇帝暗殺を企てる「青い馬」、3月革命の偉大なるルポ「夢
      幻の人々」、絶望的に怠落していった革命を描いた「黒い馬」など、彼の小説が読ま
      れなくなってしまったのは嘆かわしい限りだ。ただ単純に読み物としてもすごく面
      白いし、比類なきかっこよさだよ。もし手に入ったら騙されたとおもって読んでみ
      てくれ。素晴らしい読書になること請け合いだから。

      と、書いたところで彼の筆名ロープシンでググルしてみたらいっぱい出てきた。
      おじさんはうれしいぞ


>ためいき 投稿者:d  投稿日:2002年05月07日(火)20時43分59秒 ■ ★

      > 怨恨に満ちていなければ、妄想的哲学体系は必要ないのでは?というか趣味だ
      > よね。おれも自分のことを「詩人」とは思わない。趣味で詩らしきものを書い
      > ているだけ。
      > k、おまえの言うとおり意味なさそう(笑)黙殺されているよ。ただ、せっか
      > 木立をみとめてくれたひとたちが、なぜ木立の詩にレスつけないのか・・・
      > 木立のスタンスにも問題あるけど、残念。

      木立は他の投稿者の詩をちゃんと読み込んで本格的な評を書くべきだな。読んでも
      らいたい人ばかりで読んであげる人がいないんじゃああいう場所は成り立たないよ。
      これは漏れにもため息にも言える事だが自分本位になってはいけないな。他の人の
      詩を良く読んであげないと。
      そんなわけでとりあえず今夜はため息の詩に憎たらしいレスをつけてきた。激怒し
      たぶち切れレスを待つ。わらぃ。今日明日中に難解な木立の詩「照夜」を読み込んで
      評をつけてみる予定。

      俺は100%馬鹿にする意図で妄想哲学に関心があるわけじゃないよ。人間の素晴らし
      い能力「創造」とは文系の世界では大概妄想だが、ヘーゲルの弁証法からヲタクげー
      むのこの世の物とは思えない美しい恋愛物語まで、美しい仇花を宙空に沢山咲かせ
      てきただろ。美しいことはいいことだ。俺は審美派の詩人だからな、わらぃ。
      つーか、いかにも自らの抱いているルサンチマンには自覚的であるように努めたい
      ね。他人のじゃなくて自分のね。


>ためいき 投稿者:d  投稿日:2002年05月15日(水)22時10分24秒 ■ ★

      > いとうさんの詩、よくできてるね。まさに現代詩(笑)。
      > でも、まったく同じような主題と形式で書かれた詩を複数読んだような既視感
      > があるんだよね。手の動きが見えるというのか・・・

      あれは偉大な詩ではまったくないが傑作だよ。奥さんの陰毛など生めかしいイメー
      ジは出さずにもっと無機質なイメージに収斂した方が良かったかもしれないけど。
      つーか、何ものとも似ていないものを作るなんてほとんど不可能に近いだろう。そ
      んなことをいうのなら俺やお前の詩なんて陳腐極まりないということになるぞ。
      あんな詩書けるものなら書いてみろよ。お前も木立もあんな詩書きたいと思わない
      というのだろうが。
      俺は正直だよ(´ー`)y-~~そのうち書いてやるさ


 投稿者:d  投稿日:2002年05月16日(木)00時42分19秒 ■ ★

      はて、今日も一日ねばって小説を節ごとにライコスにアプする。長物を丸ごと見せら
      れたら大抵の人は読む気にならないだろうし、今インフォシークに上がっている奴は
      文字化けやら段落がえの狂いやらで汚いからね。
      明日にはindexを作ってアプできればいいなと思っているのだが、何せ初めてのこと
      なのでできるかどうか。くたびれた(;´Д`)ンムハァ
      貸し掲示板などを詩集代わりにしているようなダサイ状態から抜け出しはやく客を
      呼んで恥ずかしくない普通のホームペイジにしたいものだ。詩集までいじるのはい
      つになるやら。


>ためいき 投稿者:d  投稿日:2002年05月16日(木)20時14分36秒 ■ ★

      > sexと個人攻撃のサイト?
      > 知らないなあ(笑)トラップかな?ある意味光栄だよ。
      > どう行ったら出るのかな・・・ネットは開かれているようで、ルサンチマン
      > の巣窟にもなるからね。文学も例外じゃなく、そう。

      ふむ、ため息の詩もどう読んでもルサンチマンを表現したものだしな(´ー`)ニヤニヤ
      つーか、たまにはルサンチマンに溺れていない、夏の日の爽快な青空のような作品で
      感動してみたいと思う今日この頃だ。粘着に陰気臭いのには飽き飽きした。自分で
      もたまにはルサンチマンな情態性に支配されていない詩を書きたいと思うよ。


>ためいき 投稿者:d  投稿日:2002年05月17日(金)00時16分35秒 ■ ★

      > わるいけど、今のおまえはルサンチマンそのものだよ。
      > たぶん、わかっているんだろうけど。自分の顔を見て
      > みたら。詩なんかどうでもいいよ。

      本当に神さまごっこが好きな奴だね(´ー`)y-~~
      この顔が気に食わんようだが他人の心理の歪みになど気をとられている暇があった
      ら自分にしか書けない作品に届こうと試みますよ俺は。イマジネーションはどうで
      も良いようなものじゃない。想像力を手放したら人生に何の意味もなくなってしま
      う。ただ俺は自分を条件付けてきた情態性の形から想像力を開放しなければならな
      い。ワンパターンで陰気な気分にポエジーを縛り付けておくのはもう飽き飽きだ。
      つーか、ここ数日一日中ホームページ作りに没頭しており投稿サイトに行っていな
      かったんだがあそこでレスがつかないのでぶち切れているのかな?もしそうなら馬
      鹿げた話しだ。ほとんど中高生と思しき連中の中にまじってこ難しい詩を書いてい
      るんだ、そうそうレスがつくわけないだろ。他の人たちの詩を読んでみろよ、まる
      で世界が違うだろ。たまに一人二人反応してくれる人がいれば充分だ。おまえの書
      いているのは歌謡曲の詞じゃなくて詩だろうが。


>ためいき    投稿者:d  投稿日:2002年05月25日(土)00時59分39秒 ■ ★

      > 「ためいき」なんて、別に流通もしていないし価値もない記号をパロディー
      > にしても面白くないけどね(笑)文学こそルサンチマンなんだから、こう
      > いう茶化しは健康かもね。(ルサンチマンというのは或る構造の問題であ
      > って、心理の問題ではないよ。)

      文学はいかにもルサンチマンの発露かもしれないが、その域をまったく出ない物
      (自分の生の苦しさをただストレートにねちねちと語る、身辺雑記に後退する)も
      あれば、そんなちっぽけな個人的な心のお話(構造)の外部へと、書く者を、うまく
      いけば読む者をも引き出しうるものでもありうる。詩の美学、物語の力は閉塞した
      個人的な世界の彼方へと現存在の扉を開くのだ。想像とはそういうことだ。くだら
      ない心理の構造などに拘泥している暇はない。


>ためいき 投稿者:d  投稿日:2002年05月25日(土)23時59分20秒 ■ ★

      > たぶん、仕事が決まってそれなりに安定すると、こういう発言をしなくなる
      > んだろうなあ。存在論なんてフィルターをかけずに、どんなパーソナリティ
      > がうつ病になりやすいのか端的に考えるべきじゃないのかな。自分に不愉快
      > なことを「ルサンチマン分析」に全部負わせるのはおかしいとおもうよ。

      鬱病の原因探索などくだらないの一語に尽きる。そんなことはもう飽き飽きだ。
      えいえんなんてなかったとはそういうことでもあるんだ。
      30代も半ばになって鬱をわずらい職を転々とし、ときには寝たきりに近くもなった
      が、夜の底で解ったことは、俺の心理になんてどんな意味もないということだ。全
      て自身の生存様式の構造を理解しようとする問いは皮肉屋の居心地のよい、しかし
      激しく陳腐で卑小な第3項的立ち位置を約束してくれる。が、それは幻影でしかない。
      あるのはただ単にもう定職にはありつけないとか、疲れやすいとか、家族を持つ望
      みはないとかいった記述現象学的な事実のみであって、その構造ではない。
      誰かさんお得意の予め答えが出ない立ち位置を用意している問いには俺は全く興味
      がない。対人関係の考察者のつもりで、自分がどれだけその関係を型にはめること
      に汲々としてきたかを考えるべきだ。自らの20年変わらぬ神さまごっこ的対人関係
      にこそ自覚的であるべきだ。ネガティブな情態性を現すのみの無様な構えで10年
      一日の詩のようなものを紡ぎながら、お仕着せの世界性から解き放たれて創造しよ
      うとする者の足を引っ張ろうと、他人のルサンチマンにばかり目ざとくなる者の心
      理の構造などには俺はまったく関心ない。

      俺は書く者だ。作品にいたろうとする者だ。貴殿は読んでいないだろうが、つたな
      い物ではあるが既にふたつの形を言語に与えた。そして今やっと、「光の王」で自分
      の理想の文体を獲得しつつある。俺は存在しない神に捧げるようにして文を紡いで
      きた。これまでも、これからも、俺は真空の宙空に虹を架けるようにして創造する。
      遠い砂漠に立つパラボラアンテナ、宇宙塵を受ける器のように、精神の目を見開い
      て言語の到来を待ち受ける。
      職にありついているときも、職に就けないときも変わらない。
      それだけだ。


> 投稿者:d  投稿日:2002年05月26日(日)17時31分03秒 ■ ★

      > 半ば冗談だと思っていたけど、本気だったのか・・・。
      > 横目でどうでもいい観客を意識することで陥った転倒の世界にしか見えない。

      またナイーブなことを言っているね(´ー`)y-~~
      貴殿はまた今日も顛倒していない本来的世界とかいう特権的第3項的立ち位置から
      いつものように語っておられるようだが、いったいその夢の島はどこにあるのかね?
      どのように陳腐で前時代的な妄想空間であるのか説明したまえ。世界に本来的な姿
      だの非本来的な姿だのといったものはない。自身の第3項たることを保証する為に
      他人の心理を都合のよい型にはめてみようとする前に、貴殿はまず人格攻撃のよう
      なことをして優位に立とうとすることを議論と取り違え続けているこの20年間の
      自分の立ち位置を反省するべきだ。さすれば他者に触れようとするポーズをとって
      はいるがその実自分の心情以外に何も語ってはいない独特の詩の型にも新しい展開
      が開けるだろう。(自分を棚に上げて偉そう過ぎだな、(^^;ワラ)
      >観客を意識することで陥った
      現存在にとって観客の存在しないありようというものは存在しない。現存在のあり
      ようとは関係性である。世界性もまた、関係性そのものである。

      >大先生とためいきではWebというメディアの理解に著しく差があるのが二人の
      >齟齬を生み出していると思うな(´ー`)y-~~

      20世紀をもって全ての世界性を持った物語は終焉した。そして世界喪失した世界
      に現れたものがネット、即ちワイヤードである。我々人類は送電線でつながれた新
      たなリアルの実験場を生きているのだ。いまだに一部の土人のような連中はワイヤ
      ードをリアルワールドの影のようなものと捉え、或いは反対概念として捉えている
      が、これはまったくもってお笑い沙汰だ。ワイヤードの出現は、そのような2項対
      立、ワイヤードとリアルの区別を消滅させるものであった。ワイヤードは非-リアル
      ではない。この辺が解らねば現代の肌触りを思想的にも文学的にも理解することは
      不可能である。

      >累々
      ネタとマジレスの区別などというものは存在しない。お前の猟奇詩がそうであるよ
      うに、ネタであってもそれはある種の現実なのだ。お前ワイヤードに何年いるんだ。
      そんなナイーブな台詞が通用するわけないだろう(^^;ワラ


 投稿者:d  投稿日:2002年05月13日(月)21時43分35秒 ■ ★

      このところ詩人ギルドなどあちこちの投稿サイトを見ているのだが、糞のような詩ば
      かりでげんなりだ。詩を書くということが芸術行為だという発想がほとんどの書き
      手にはないようで、文才の欠片もない者が書く下らなくへたくそな日記の断片のよう
      な物を恥ずかしげも無く詩だといって貼り付ける無能ばかり。たまに才能のある人も
      見かけるのだけれど、そういった人たちは自分のサイトに引き篭もっている場合が多
      い。一昔前は詩を書くというのは文学青年の行いだったものだが、最近の連中はろく
      に本も読まないようで、詩というよりは激しく程度の低い歌謡曲の詞だ(無論歌謡曲
      の詞にだって素晴らしい詩は幾らでもあるが)。言葉も知らず漢字も読めず思考能力は
      皆無でセンスの欠片も無い。端的に言うと下手糞で無内容で下らない。
      活字媒体はどうだろう。今日は「詩と思想」を読んできた。糞だ。何でこんな下らな
      いものが金を貰って書いているのかと呆れる作品ばかり。今月号に乗っていた詩人さ
      んたちの詩は一つ残らずゴミでネット以下だった。詩人さんたちの共通の特徴は、やは
      り芸術性が皆無であること。こいつらはさすがに下手糞ではなくそこそこ上手ではあ
      るのだが、何故か皆一様にイマジネーションの欠片も無く、ポエジーなど皆無だった。
      名高い詩誌の中にイマジネーションが無いとは呆れるばかり(^^;ワラ下らなくつまらな
      い生活世界の断片をどんなイメージの飛躍も無くただそのまま書き記す無能ばかりで
      哀れ無能という感想以外に何を感じればいいのか皆目わからない駄作ぞろい。

      読む者を異次元に引き出すイマジネーション、事象を永遠の相の下に照らし出す言葉。
      詩人とはシャーマンのような者であったはずだ。連中は詩人ではない。


>ためいき 投稿者:d  投稿日:2002年05月05日(日)00時36分17秒 ■ ★

      > なぜ、もっと欝に、もっと絶望しないのだろう。
      > 心理家とは、自分自身ではないのだろうか。切ないよ。

      ふむ、なにやら挑発的な物言いだな。これは喧嘩をしたいに違いない(´ー`)y-~~
      心理家と言うと筒井康隆かぶれの宇他田レイパーを漏れ的には想起するのだが貴殿
      は漏れに喧嘩をふっているようだな。漏れのルサンチマン分析が気に入らないに違
      いあるまいが、他人の歪んだ心理を分析して面白がるような振る舞いはもう15年ぐ
      らいしていないと思うのだがいかがな物か。貴殿が何が気に食わなくてぶち切れて
      おるのか、いかに詩人の文とは言えたった一行では何が言いたいのかかいもく解り
      ませんよ。もっと懇切丁寧に語ってください。(´ー`)ニヤニヤ
      貴殿は何やら漏れが鬱だ鬱だと言いながらチャンコロオフ会等に行ってミニスカー
      トのおね-ちゃんと酒を飲んでいい気になっていることが気に食わんようですが、
      ならば
      「俺は絶望しています、人生は無です、死にたい(;´Д`)ンムハァ」などと抜かすことに
      どんな積極的な意味があるのでしょうか?そのような振る舞いに何のたしがあるで
      しょうか?
      いかにも人生などには何の意味もありません。予め与えられている意味などあるわ
      けがないし、後天的に自ら選択して獲得する意味が「大文字の」意味を担えるとも到
      底思えません。
      漏れ的にはただ、虚しい日々の慰めに、宙空にバベルの塔を築くがごとく自らの妄
      想像力を磨いて精神の実験場たる己の脳の異常な電気信号を組織していくのみです
      よ、はい。
      つーか、酔っぱらっているので今日はこれだけで勘弁してくだちぃ
      反論をお待ち申し上げておりますヽ(´ー`)ノ


>  投稿者:d  投稿日:2002年05月05日(日)19時25分16秒 ■ ★

      > > 心理家の文だとおもうよ。別にけんかを売ってるわけじゃないよ(笑)
      > 昔dが「欝病に存在論的なものはない」なんて(もちろん間違い)いっ
      > ていたけど、dには存在論を感じないんだよ。

      人の文を心理家の文だと言い放つ貴殿の文からわかることは、貴殿はあんまり懇切
      丁寧な心理家ではなくて一言居士タイプの心理家だということですかな(´ー`)ニヤニヤ
      かつて私が鬱病に存在論的なものはないと言ったそうですが、まことに遺憾ながら
      記憶にございません。いかにもそれは間違った見解で、子宮回帰願望という性急な
      存在論的欲求に支配されておるのが鬱者であり、鬱者は存在しない世界と自己の全
      面的な合一という空虚な妄想に縛められてえいえんに自分自身に届き得ない自閉症
      の彷徨い人であるわけです。
      つーか貴殿が存在論という言葉を使って何を言はんとしておられるのか皆目解りま
      せんが何か?(´ー`)y-~~


>ためいき 投稿者:d  投稿日:2002年05月06日(月)03時11分55秒 ■ ★

      > 「転倒の累積と隠蔽を系譜的に見て、自分の場所を明らかにすること
      > 」かなあ。dの定義はルサンチマンそのもので、なにも明らかにしな
      > いじゃないかな。ごめん、最近勉強してないんで(笑)

      もまえの言ってることは心理家のルサンチマン分析の話しのような気がするがナ。
      存在論の話じゃなかったのか?
      存在論といっても形而上学の話じゃなくて、存在論も己の実存にとってのもである
      わけだから、どのような欲望としてあるのか、己の存在論的欲求に関心があったわ
      けだ。まあ、今となってはその欲望は思考実験の果ての夢幻の王国のようにえいえ
      んに再生産され続ける構造ができているようなわけだが、わらぃ、とにかく存在論
      的欲求以外に書くことなんて何もないな、俺は。


>  投稿者:d  投稿日:2002年05月06日(月)19時01分38秒 ■ ★

      > でも、dの詩や、思考実験(?)に、dの実存や単独性をかんじられないん
      > だよね。才能の問題じゃなくて。おれだけかなあ・・・。
      > それから、ニーチェは心理家なのか(笑)

      ニーチェ以上の嫌味な心理家がどこにいますか。ルサンチマン分析の元祖でしょう。
      私の作品に実存の単独性がないと仰せだがそれもしや漏れの天才的大詩人たることを
      否定するわけではあるまいな、 Λ Λ
                            (;`Д´)プフィ!
      無限の電脳空間においても天才的大詩人で検索できるのは漏れだけですぞ、グラァ
      http://www.google.co.jp/search?q=%93V%8D%CB%93I%91%E5%8E%8D%90l&hl=ja&btnG=Google+%8C%9F%8D%F5&lr=

      つーか、実存の単独性などどんな糞のような詩の中にもありますよ。尾崎や浜坂あ
      ゆみの歌の歌詞以下の、感情を記述しただけのゴミのような物の中にこそ恥じらい
      もなくあからさまにあります。糞便でケツが汚れるのならオムツをするべきだと思
      いますよ、はい。情態性を記述するだけでは芸術たりえません。それは詩のような
      形をとった日記です。
      ただ単に独自性のことを言っておられるのだとしたら、私が散文において生み出し
      た言葉は、自らの精神の異常性を実験的先鋭的に追求深化することによって獲得し
      た違次元世界との接点であり、JGバラードや笠井潔のパロディーに還元されるよ
      うな物ではありません。私の脳は電脳空間ワイヤードに接続されることによってそ
      の実存的単独性を超越し、新世紀の存在論を追及する電脳生理システムとしてワイ
      ヤードに再組織化されたのです。地球の固有振動とシンクロし、創造的新化の果て
      に絶対精神に触れるのです。耳を澄まして御覧なさい。真空放電するような音の背
      後に電線の唸る音が聞こえます。かつて神のいた場所は空虚です。ワイヤードにた
      どり着いた先鋭的イマジネーション(妄想像力)は新たなる存在論を生み出すべく真
      空の宙空に差し向けられてあるのです。
      脳内のパラボラアンテナを高くかかげよ!
      130億光年の宇宙を受肉し、始原と終末を生きるのだ。
      私は偏在する。そこに、ここに、どこかに。


>ためいき 投稿者:d  投稿日:2002年06月02日(日)01時22分56秒 

      > おまえは学生と何ら変わらない条件で、無力感と万能感を入れ替えている
      > だけだよ。結局優位に立たないと気がすまないだけだ。おれには関係ない。

      何を言っているのかまったく分けが解らない(;´Д`)
      俺には無力感も万能感もこれっポッチもない。自分に書けることを書くだけだ。
      貴殿とは結局自分以外の人間の醜い心理の話しかできず芸術の話なんかはできない
      ようだ。なぜそうなるのか。これは貴殿の20年この方変わることのない対人関係の
      ありよう、即ち相手との関係を相手の心理の歪みを見出して有利に立とうとする構
      えの中に見出すといういささか立ちの悪いありように起因すると私は思うがいかが
      なものか。昔からよく聞かされていた詩の同人誌の歪んだ人物や対人関係だとか、
      その者の作品ではなく貴殿にとってのその者の心理(無論不公平な見方ばかりだ)な
      どとといったどうでもいいことばかりあえて見なければならない自分の心理の歪み
      こそに貴殿は自覚的であるべきだ。作品にいたろうとする者にとってはその作品に
      至らしめた、或いは貴殿の言葉を使えば「その作品へと強いた」背後にある心理など
      というものには何の意味もない。そんな物が意味を持つのはルサンチマンに満ちた
      目で対人関係を見る者と陳腐な批評家にとってだけであり、実存という言葉が作品
      に至ろうとする情念をではなく醜い心理を指すことになるのもその手の歪んだ者に
      とってだけである。
      はて、また小説に手をつけ始めたし、近々働き始めることになると思うので、この手の
      話はそろそろ閉めようと思う。


文学の骨盤  投稿者:某J  投稿日:2002/06/13(木)17時00分16秒 

      この頃は二日に一度寝れればマシな体質になってしまったので、何かとかったるい。
      幻聴幻視もお手の物、例えば今私は目をつぶっています。するとあたかも目を開け
      ているかのように外界の諸事物の輪郭がくっきりはっきりと知覚表象として浮かび
      上がってきます。まあ目を開けているからなんだが目を閉じてブラインドタッチ
      できるほど暇人ではない。が、こんな駄文を書き殴るぐらいの暇人ではある。
      誇れることではない。で、ずいぶん前に@Remixでぁゃιぃの通過儀礼を済まして
      既にクリ島住人として当時の情勢とは一転して好意的に受け入れられ今や
      ぁゃιぃ的な作法が何とも板に付いた大先生のサイト掲示板を眺めていたら
      本人の文学観がまこと闊達に述べられていた。でも俺やレイプ兄さんが文学は
      職人芸のようなものだと言ったか?少なくとも俺はそのような気配を臭わせたが、
      レイプ兄さんはその初見の誤解を懇切丁寧に 説明していたじゃんよ。まあ俺が
      述べたのは単に状況概説だけであり、自身の文学の真骨頂など言っていないが、
      それではここで持説の真骨頂というか、まあ思うところの基礎をテキトーに
      綴ってみよう。

      言うまでもなく常識だが文学は言語芸術だ。近代小説がどこで始まったかは
      知らないが、おそらく 西洋ではフィールディングやリチャードソン辺りの
      18世紀初頭か、もう少し遡っても「ドン・キホーテ」とか、もっと言えば
      地中海ルネッサンス辺りからだろう。19世紀になるとリアリズム小説が
      盛んになるが、そこでの難問の一つとしていかにして還元不能な現実の
      多様性を言葉の表象装置を通して 歪めずに再現できるかということに
      あの頃の小説家はバルザックやフロベール、ドストなどまあ案外に苦心した。
      現実は無限だ。一方言葉は有限だ。本質的にリアリズム小説とは不可能な
      ことであって、 これを乗り越えるのに町中に置かれた鏡の比喩や無限遠点
      から観望されたスラブ的大地の神秘などまあ色々出てきたが苦心惨憺たる
      ものがそこに秘められているのは言うまでもあるまい。言葉は現実を切り取り、
      それを新たに想像力で肉付けするが、当然その想像力は言葉の他者性に裏切られ、
      作品は作者の企図では統御しきれない過剰さを持つ。ヴァレリーが作家が作品を
      作るのでなく、作品が作家の像を造るのであり、作品は作家にとって一つの
      神秘だと受容理論風な言葉を漏らしたのもそのことを指しているのであり、
      作家はまず言葉に習熟しなくてはならない。といっても手込めにするのではない。
      つーかそんなことは出来ない。出来ると思うのは単に馬鹿なだけであって
      言葉の怖さが分かっていない。 言葉に習熟するとは言葉の怖さを知ることで
      あり、更に言えば言葉の他者性に殺されることだ。

      言葉の他者性とはある言葉は社会的な公共空間に流通し見知らぬ他者の手垢に
      まみれた不透明性の層を孕んだ異物だという認識であって、 どんなに深刻
      真摯な内面の吐露と本人に思われていることも言語という本質的に気まぐれな
      他者の所有物を介してしか表現できないという怖ろしさへの感受性であり、
      どんな中立的な言表も状況依存的に機能するという被拘束性を指している。
      更にそれは内面が言葉に先行する のでなく言葉の配列法がその間隙に内面を
      産み出させるという視点と切り離せないものであり、その認識はつねに自身に
      ささくれ立つ甘美な遠近法的倒錯を問いただし鋳直す作業を意味する。要するに
      何かを描写しようとしてもその描写は必ず自分から半歩以上ずれたところに
      しか生成しないのであり、その書き手と書かれる対象言語とのズレに病的な
      までに自覚的に振る舞うのが詩的な実践をも指すのはハイデッガー流解釈学
      の前提だろう。存在が贈与−生成させる物に四者の単一と密接に絡み合って
      宿った死すべきものたる意識がその誕生の瞬間を意識した瞬間に自己疎外の
      ズレが否応なしに生じるわけだ。 

      言葉に宿った歴史的連想の換喩的な豊かさを排して、内面描写や対象叙述などの
      隠喩的な貧しさを選び取った日本の言文一致運動はそもそもが混沌とした内面
      または外面の無秩序と混沌を整序し、他者に 事態を明確に分かり易く説明し
      万民を納得させるような機能面に重点を置く近代的な散文の確立に行き着いたが、
      未だ国民言語の言文一致体と読本以来の雅俗折衷体や知識言語の漢文訓読体が
      しのぎを削っていた戦前戦時の時期から一転、戦後世界は言文一致体のみが
      その人工性を隠した自然らしさやもっともらしさのうちに流通するようになり、
      大抵の人間はその不自然さに気づくべくもなくなる。たまに気づくとすれば
      漢文や古文に たまたま学校授業で接する時ぐらいだが、それも国民言語に
      小さい頃から籠絡された感受性では全てがポイポイ翻訳されてその物質性に
      など全く無自覚でいられられる。幸せな言語的貧困の時代だ。 

      戦後文学はそれまで類例を見なかったような観念性を獲得したが、それも
      単に戦前まで学ぶべきものを学んだらさっさと打ち倒して俺らがその位置
      についたるでえ的な<父>なる先行者的役割を 果たしていた文学者や
      共産党が戦時下の国体イデオロギーに抗すすべもなく呑み込まれていった
      無力さを露呈したあと、何を規範とすべきかと悩んだ挙げ句に行き着いた
      のが日本近代が残した文化的伝統を 更に包摂するような大文字の<父>、
      つまるが世界文学の理念とか世界理念としての共産主義とかそういった
      やくざなものであったからで、その身の丈に合わない大文字の<父>に
      服従することでようやっと 子たる自己のヘーゲル的な意味での労働を
      始めることが出来るようになったというだけだ。埴谷や椎名などはその
      典型だし、近代文学同人はほとんどそうだろう。伊藤整は微妙に違うだろうが、
      この戦後第一世代以降の文学は現実性を飛び抜ける観念の跳躍をあたかも
      当然だと思いなし、それに何かと精魂を傾けるが、その実は現実性に完膚
      無きまでに馴致された単調さの膿に惑溺しがちだ。まあこの土壌は明らかに
      大正教養主義的なもので、更にその土台を整備したのは昭和初頭の社会情勢
      の混迷の中で教養形成した世代であろうが、そこでは自己と世界がその中間
      にある社会や国家という障壁を一足飛びに乗り越えて、人類や宇宙と容易に
      結びつく観念の肥大化を著しく促進する。国家と国民が仲良く手を結んで
      進歩の道を進めなくなった大逆事件以降の現実抹殺術は当然今まで微か
      ながらにでも感受されていた近代以前的なものの感触を小説言語から失わせ、
      その断絶を物理的に噴出させた関東大震災の厄災などの後押しによって
      文化の白紙状態が到来する。故郷を失った文学ってやつだ。この今までの
      文化的伝統の残滓と辛うじて結びついた根拠の感触までをも失った昭和初頭
      の時期にその根拠の不在を方法化させた新感覚派が登場してきた条件だが、
      その一方で根拠喪失の要因を都市貧民層や貧困な農村階級などを産み出す
      資本主義化の荒波に結びつけてその打破を唱えたプロレタリア文学も登場し、
      逍遙以来の焦眉の問題だった言文一致した平明明晰な文体を産み出した自然
      主義的リアリズム派と三派鼎立の巴合戦を繰り広げることになるわけだが、
      その全体に文句を付けたのが小林秀雄だ。小林の苛つきはただ一つ、要する
      にどの党派も言語および自己の自明性を全く懐疑したこともない脳天気さに
      向けられていたわけで、これは小林の出身がフランス象徴主義経由の詩だった
      ところに起因するが こんな文学史のおさらいはどうでもいいんだよ。要するに
      戦後文学は大文字の父に服従することで今までにない観念の広がりを文学に
      持ち込んだ。これは良いことだ。だがそれはそれ、文学を志す人には以下の
      ような事態が理解できないとほとんど致命傷。小林の秀抜な例えを引き合いに
      出せばこういうことだ。海の色を一度も見せたことがなく、且つ、海は青い色
      だと教え込まれていた子供がいるとする。 その子供が写生大会で海に行き、
      それを描くよう言われる。そこでその子供は海の色が全く青でも何でもない
      ことに驚き、画筆具を投げ出してしまう。そんな子供がいたらその子は天才
      だと小林は 言うわけだが、さてここにはどういうことが言われているのか。 

      簡単に言ってここでは三つの段階が言われている。まず海が青色でも何でも
      ないことに驚く段階、そして何の現実との対応関係も持たない海は青いという
      言葉があたかも 本当のことであるかのように人々の間に流通しているという
      事実に驚く段階、そして最後に海が青くも何ともないという絶対的な事実の
      強度の前に言葉従来の表象装置が 崩壊するにまかせて驚愕しながら立ち尽くす
      ことに耐える段階、この三つがここにはあるわけだが、つまるが言葉の表象−
      代行機能は現実を籠絡する。が、現実は言葉に決して籠絡できない 過剰さ
      そのものとして本来的にはある。人はとかく言葉のまどろみに幻惑され、
      言葉の王国の中で現実の迫り来る過剰さから何と身を守りがちだ。しかし
      その過剰さに驚愕した精神の目を開きつづける子供は天才=怪物であり、
      その怪物こそが詩人の本性だということだ。そこで詩人は言葉を一新させ
      その過剰さをすくい取る言葉を発明しようとする。俺は母音に色を割り振った。
      Aは赤、Eは黒、Iはなんちゃら、と。まあフランス語の 行儀良さに気も
      狂わんばかりになったランボーだが、ランボーもリアリティとは現実その
      ものには関係なく、むしろ現実を解釈する感受性の問題であり、その感受性は
      しかしつねにすでに共同体の言語的コードに支配的に構成されているという
      不愉快さを肌で感じてたパンクボーイだったからね。ついでに横道逸れると、
      異化ってのは対象表象と言語表象を固定的に結ぶ共同体のコードとしての
      リアリズムに寄生しなければ出来ないもんだから、全くお茶目な悪ガキの
      悪戯だね、という問題が新感覚派の枝葉作家にはある。横光や川端ほどに
      なるとそんな問題はもっと巧みに昇華されているが。で、現実はつねに
      現実性でしかなく、その現実性は共同体の言語で構成されている。現実と
      現実性は全く異なる。 存在の開口部と存在者の世界も全く違う。外部性と
      外部ぐらい違う。死と生ぐらい違う。黙読共同体における小説言語の
      モダニティは表象の再現性をあたかも直接的に現前させる ところにあるわけで、
      つまり気の抜けた外部をあたかも張りつめた外部性のごとく見せる虚構の
      構築にあったわけで、初期の日本近代文学ではそれが文学性の評価にも
      なっていたことは有名だろうが、後代になればなるほど 外部と外部性、
      現実と現実性の混同が当然のようにインフレを起こす。 ところでド・マン
      は存在が贈与した存在者の世界の 基点接合部の刻印を記銘という言葉で
      示したが、その記銘の後にあの子供がその胡散臭さにびびくりまくった
      言葉=表象の世界が展開されるわけだ。当然、そこには存在も真理も
      外部性も過剰もない。まああるとしたら、 異界の表象物を想像的に所有
      することで失われた理想の全体性を回復させようとするロマン主義の
      欲望だけだ。そしてニーチェはそれをルサンチマンと定義したわけだ。
      これはカント以降、ヘーゲル、 シュレーゲル、ショーペンハウワーと
      共有された西欧哲学の悪しきイデアリズムだと言ってね。

      偽物に囲まれた自分の境遇の彼方に必ず本物があると思いこむ欲望のパターン、
      これはルサンチマンと言ってもいいが、もっと簡単にスノッブと言えるものだ。 
      存在が贈与した世界は潜在的な道具連関であり、そこに被投された現存在の
      基本モードは配慮=関心だとハイデッガーは言うが、もっと言えばこれは
      事物の使用価値を交換価値の同一性に還元し、幸福の総量を関心−利益の
      度合いにすり替える貨幣経済的な市民社会という世界の場所的輪郭と切り
      離しては考えられない。ここにおいて人は失われた幸福さの原像にドライブ
      された隷属者となるわけだが、この奴隷根性は上品と下品、高級と低俗、
      都市と田舎、中心と周縁との連鎖的な権力関係の中でより高いものを模倣し
      自らを権威付けることで生活の実質や心意から逸脱していくスノッブのいわく
      言い難い焦慮と同根の場所から発生してる。スノッブにならないためには言葉の
      まどろみに籠絡された寝惚けなまこの意識の意味=方向を絶えず軌道修正しなけ
      ればならない。欲望は他者の欲望を模倣し内面化したところに成立する。意識の
      核に巣くった他者の欲望をギリギリのところまで検証しつづけようとする軌道
      修正の方法論、それが言葉への習熟だ。これを介さない言語運用は驚くべき
      下痢症に苛まれる。言語の下痢症をストップさせたいなら、白黒の世界を灰色
      になるまで溶解さればいい。

      こんな感じで言葉に熟達しようとする終わりなき職人芸は全ての言語芸術の
      支点であり本質であると言って何ら差し支えない。何故終わりないかと言えば
      それは本来的に不可能な作業だからだ。といっても不可能ではない。言葉の
      虚焦点を埋めた精神のありようを精神医学では分裂病、今は総合失調症だけど、
      そういうわけでね。フロベールとかもそこら辺の世界に突っ走ってた。で、
      こんなことを延々と書いてても面白くないので 現代の日本文学に言葉と意識
      と現実が否応なしに葛藤し合う摩擦臭を漂わせた作品を探してみようと言えば
      案外ある。言葉は現実のスピードに追いつけないにも関わらず意識の鈍重さ
      からすればいつも遅く見える。出来ることと言えば文句をいうことぐらい。
      これはしょうがない。 早すぎる現実を捕まえて、言葉に凝結させようとし
      ても、言葉遣いは当然従来通りでしかなくその影しか残らない。詩的言語の
      最上はおそらく幼児や夢、精神病者などの私的言語だが、文学作品を書く奴
      なんぞは大抵が正気だ。というわけで、その外部性に向かった意識と言葉と
      現実の葛藤と残った影への接近が近代文学的な常套の溶解または強化を通して
      如実に見られる作家は例えば大鋸一正、藤沢周、赤坂真理、ちょっとずれて
      角田光代、保坂和志、ここらは正統系。全員有名どころでしょう。まあ、
      そんな感じか。 言うまでもないがこういった言葉とじゃれ合うんじゃなく
      命を賭けて殺すか殺されるかの喧嘩をする姿勢は文学の基礎の基礎にすぎない。


>某J  投稿者:某S  投稿日:2002/06/17(月)07時08分27秒 

      > ぁゃιぃ的な作法が何とも板に付いた大先生のサイト掲示板を眺めていたら
      > 本人の文学観がまこと闊達に述べられていた。でも俺やレイプ兄さんが文学は
      > 職人芸のようなものだと言ったか?少なくとも俺はそのような気配を臭わせたが、
      > レイプ兄さんはその初見の誤解を懇切丁寧に 説明していたじゃんよ。まあ俺が

       ダーザイン先生はわざと誤解して挑発的に議論を始めようとするから芸達者。
      みんなで文学議論(?)したときのことを思いだしたら何だか触発されてきたんで
      俺もまたサイトと掲示板立てようっと思いましたヽ(´ー`)ノありゃ楽しかったな

       ダーザインが遥か地平線の彼方でぽつんと寂しそうにしているんだけど
      よく耳を澄ましていたらなんだか楽しそうに詩を朗読している、今はそんなふうに
      ダーザイン先生のことが思いだされてなりません。でも遠くからハッハッと
      息を弾ませて「某Jと某Sの輩は職人芸」ハッハッと看板掲げてきたんで
      「また先生か」と驚愕している、そんな感じの月曜の朝ですヽ(´ー`)ノ

       業務連絡:あとで掲示板スクリプトを更新するから、何かリンク変更とかあ
      れば言ってください。それともbiglobeがCGI使えるなら自分で置くかい? 
      このままでいいならこのまま置かせてもらうよヽ(´ー`)ノ

       じゃあバイバイヽ(´ー`)ノ~~

       カマッテ君の顔文字多用するとうざいねヽ(´ー`)ノそーいや顔文字を
      使う文章って、顔文字をつけるのを前提に組み立てている感じがするな。
      さんざんあれで多用してわかった。


 投稿者:d  投稿日:2002年06月26日(水)18時50分43秒 

      かまって君とは言葉が通じないので困ります(;´Д`)
      僕は別段たちの悪い評論家に因縁をつける意図はなくもなかったりするわけではな
      いような気もするわけですが、わらぃ、
      要するに僕にとっては世界を覆し新たな異世界を(それはしかし異常なように見えて
      も非常に現代的な世界の真の姿を)再創造する物語の力とイマジネーションが文学
      だと言いたいわけで、創造する喜び、鮮烈なイマジネーションの到来を生きること
      のない評論家さんには何を言っているのか皆目わからないのかもしれません。

      原稿用紙一枚でもいいから、到来する言葉を書き記す体験をしてみて欲しいです。
      今のような文学観のままでは無理だと思うけど。つーか、そんな文書きたいとも思
      わないんだろうけど。つーか、氏の文はあやしーWALKERにある100%受けねらいの物
      しか読んだことがないので、もうちょっと文学的なものが読んでみたいです。文才
      がまるでないわけでないと思うし。


 投稿者:d  投稿日:2002年06月17日(月)20時42分12秒 

       以前のような気力も発狂もないのだが、某Jと某Sがネタをふっているので職が
      見つからない憂さ晴らしをとりあえずここでしてみようかと思う。職のことで頭が
      一杯で妄想像力はスカスカ状態なので本格的に既知外じみた(即ち真の世界性をもっ
      た近未来的な言葉)はあまり出てこないだろうとは思うが(;´Д`)。
       某Jの板を荒らすようなことになるのでREMIXに@文学でも立てた方が良いかとも
      思う。いかがなものか。

      >ためいき
      某Jと某Sは漏れとは違ってわりと本格的な(陳腐という見方も可能(´ー`)ニヤニヤ)評
      論家なので潰さなければならない暇があったらからんでみるといい。某Sには筒井
      康隆ふうの所があり、ためいきとは同属嫌悪で貶しあう事になるのかそれとも馬が
      合うのか興味の湧くところだ。わらぃ


>ためいき 投稿者:  投稿日:2002年06月18日(火)00時36分07秒 

      > 興味ない(笑)animicaさんのようなひとと静かにやり取りしていたほうが
      > いいんじゃないか。それに、あちこちに「神」を探すのは何か安っぽいよ。

      神ってあんた、哲学用語を並べ立てて自らの存在の空虚を埋めようとしている頭は
      良いが強迫神経症まるだしの不幸な奴と、その師匠筋に当たる作家志望の陰険な国
      語教師のような雑文書きでどちらもあやしーわーるどでは有名な、深夜の送電線の
      上にぼんやりと灯る既知外の幻影のように存在しないも同然の長文書きがいるわけ
      で、たまにはかまってやらないと寂しがるので挑発に乗ったふりをしてやっている
      だけですよ。連中の憎たらしい所は一見真っ当で至極もっともなことを言っている
      ように見せかけるテクニックですので騙されないで下さい。
       Λ  Λ
      (;`Д´)ぷふぃ!


>ためいき 投稿者:d  投稿日:2002年06月18日(火)12時55分15秒 

      > 某何がしさんは、字が多すぎてよんでいない(笑)おれの言う「神」は
      > animicaさんのようなひとのこと。彼らはネガとしての「神」かな。

      つーか、俺もほとんど読んでないが(;´Д`)
      毎度毎度鬼のような長文で哲学史だの文学史だのを講義されても何の事やらサッパ
      リわからないのは漏れの不勉強のせいだが、そもそもイマジネーションというもの
      は全ての歴史性を超え出ようとするものだから、評論家ではなく作品に至ろうとす
      る者、書く者としては後から理屈をつけてみるのは余興であって2次創作みたいなも
      のとまでは思はないが、とにかく文学の創造とは別のことだ。
      つーか、あれは哲学徒の自己鍛錬のための掲示板で公開されていることにさしたる
      意味はないのかもしれない。


>   投稿者:改め某J  投稿日:2002/10/01(火)01時46分50秒 

      > 某Jさんもdも典型的な左翼だよ。言説で世界を内包できる錯覚
      > を生きているだけだよ。ジョン・レノンと変わらない。なぜ凡庸であるこ
      > とに気付かないのか、不思議で仕方ない。イスラエルもパレスチナもアメ
      > リカも存在しないよ。左翼の実体はプチブルなんだ。「自意識」なんだよ。

      つーかさ、何をどう読むとそれほどの誤読が出来るのか不思議でしょうがない。
      大先生はともかく俺はそんなことを一言も言った覚えはない。むしろ大先生に
      内在する戦前左翼から68年的左翼にまで通底する疎外論の硬直した退屈さを
      批判的に難じている俺の文章がどうして同じになるのか、しっかり説明して
      欲しいぐらいだね。現実とは現実を解釈する感受形式と同値であり、その
      感受性はラングに統御され、現実の過剰さを言説の認識論的付置に籠絡する
      語りの表象秩序は常にそこにたじろぎ躓くと言っていることは、言説で世界を
      内包できると錯覚したらしい共産主義や前衛党への俺の前文での否定的言及を
      蒸し返すまでもなく明白に過ぎないと書いているにも関わらず、その読解の
      凡庸さにはひたすら脱帽せずにはいられないとでも言えばいいのかな。

      そもそも柳田を引き出すまでもなく、民間説話は現実の圧倒性が語りの秩序を内破
      する契機の痕跡なわけだが、今さら左翼=プチブル的な疚しい良心論という宮本
      イズム風味の古典的図式を尤もらしく自意識の一語のもとに提示されてその凡庸さ
      に今さら感心しろと言われても小林秀雄が覇権を唱えた昭和初頭ではあるまいし
      さすがに困ってしまうというのが偽らざる実情だが、言葉の表象機能が代議制の
      政治力学に多分に貫かれているというフーコー以来のこれまた凡庸な常套句を
      踏まえてみれば俺は極めて左翼的だという言に納得は出来ようとでも言うものか。
      まあ文化左翼も心情左翼もサヨク気取りも嫌いだが、世界の錯綜の前に佇み絶句
      するだけのロマン主義的心性に底流するシニシズム的な俗臭も同じくらい嫌いだ。
      自意識とは自己愛の類縁語だが、そんなに自己愛の牢獄から逃れられないからと
      言って、そこに居直ることを積極的に肯定するナルシストの俗悪さには誰でも
      鼻白むってもんだ。第一、左翼の実体が自意識の妄執だと言うのなら、そう言う
      自分の自意識が想定する左翼の実体も妄執に過ぎないのではないかという懐疑の
      一片だにない陽気な陰鬱さに浸された哀感込もる断言のありようには一驚を禁じ
      得ないね。まだベットで革命とかほざきながら金銭への執着を公然と宣っていた
      ジョンレノンの方がちゃっかりしててマシだ。

      言うまでもないとは思いたいが、自意識も言葉の乱反射する無限増殖が産み出した
      物象的な錯覚であれば、その自意識の構成要因たる言葉に宿った政治性の痕跡から
      人は逃れられない。政治的なことに自身は関係ないと言い切りかねない実存病の
      阿呆臭さにはいい加減ウンザリしてるんだが、あんたもそうなの?まああんたの
      意識的な自己規定を取り巻いている現実的な位置はサルトルがプチブル的卑劣漢
      と言って一蹴した単なる現実追認的なそれに過ぎないけど。まあこう言ったから
      と言ってまさか俺が政治運動に過大な夢を託してるとか勝手に自意識の妄想を
      膨らまされても困るけど、俺の自意識はそう自乗的に想像せずにはいられない
      ってことぐらいだから。まあ凡庸さという名辞はありがたく受け取るか。自身の
      凡庸さに自覚症状もなくたかだかパレスチナ問題について軽く論じたぐらいで
      相手を典型的左翼と冷笑するような奴らよりは五十歩百歩だとしてもまだマシ
      だと思うしね。



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@えいえんなんてなかった & 某Jの掲示板 からの転載をまとめたものです。


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